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利己的で冷たい心を取り除く


文/海外大法弟子


 【明慧ネット2006年6月22日】私はずっと自分の冷たい心を正視する勇気がなく、いつも、自分の子供に対して冷たく、同修に対しても冷たかった。

 子供に対しては、私は一応の理屈がある。私は母として、あなた達を教えなければならない、あなた達がこうすることは間違っている、言い返してはだめ、あなた達はこうこうすべきだと、経典を引用して、言葉のうえではとても旨い。結局、子供達のことに関心を持たず、事をする時に他人のことを考えていなかった。子供に対し、私は内を探し、自分のあの厳しい心、寛容ではない心を探し出そうともしなかっただけでなく、かえって不当な態度を返され一層怒った。

 同修に対しても、私は一応の理屈がある。物事を積極的に行い、多くの事をやって欲しい同修に対して、私は、みんな他人のためではなく、自分のためにやっているのに、どうして自分が上手に出来ていると思うの、どうして不平をこぼし、他人に要求するのと責めた。この時の私は、相手の立場に立って考えていなかったし、衆生のための責任も忘れていた。

 邪悪に迫害されている同修に対しても、私は同じように鈍かった。発正念をして、真相も伝えているが、完全に師父が要求されたようには出来なかった。「相手のことは即ちあなたのことであり、あなたのことは即ち相手のことです」(『2002年ワシントンDC法会での説法』)。

 私は甚だしきに至っては、先生の法を引用して、自分の麻痺と冷たさを弁護した。「ですから、大法弟子として、いくら厳しくて残酷なこの歴史を経たとしても、私たちは悲しむ必要はありません。私たちが心の中で考えているのは衆生を救い済度することであり、自分が法のためにやってきた生命であることと、ここに来たことの意味を実現させているので、私たちが遺憾に思うことはありません。大法弟子を待っているのは素晴らしいものです。最も哀れなのは迫害された世の人々と旧勢力そのものです。彼らの末路こそ本当に哀れなものです」(『2003年ワシントンDC法会での説法』)。もし、今、拘禁されているのが自分の親戚なら、私は間違いなく異なる態度をとると思う。 

 母親としての自分の不足を隠して、また、大法弟子の素晴らしい将来を自分の内心の麻痺のため弁護する自分は、本当に恥ずかしく思う。私は必ずこの冷たい心を修煉によって取り除こうと決意した。師父は私がよく修煉するよう望んでおられるし、衆生も待ち望んでいる、私は必ず精進しようと思う。


(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/6/22/131026.html