真に常人社会に最大限に符合する形式で修煉する 文/済南大法弟子
【明慧ネット2006年6月25日】師父の『2006年カナダ説法』を勉強した後、私の心は大きく打たれた。そして心の中では続けざまに「師父ありがとうございます!師父ありがとうございます!」と感謝した。一方では師父の洪大なる法理と繰り返される慈悲なる教えに感動し、もう一方では法に自分を照らし合わせた時、自分が常人社会に最大限に符合する形式で修煉できていない。師父に対して合わせる顔がない、もっと精進して自分をもっとよく修めるべきだと思った。
私個人の理解によると、法を正して今の時期に至り、師父は弟子の中で普遍的に存在する問題に対してもう一回説法された。常人社会に最大限に符合する形式で修煉する問題において、表面上師父は『ロサンゼルス市での説法』の中で大法弟子全体に存在するあの厳重な問題を説く時のように厳しくはなかったが、私はこの問題も非常に厳粛だと体得した。それは、現在に至って、大法弟子は成熟して理知的になっており、偏って法を理解することなく、三つの事をやり遂げることと、最大限に常人社会に符合する形式で修煉することの関係を正しく処理できるようになった。このとき、師父はやっともう一回この法を説かれ、再度私たちを目覚めさせてくださったからだ。
私自身について言えば個人修煉の時期、ほとんどすべてを法の勉強と煉功、補導員の責任を尽くすことに使った。家庭の事はほとんど処理せず(家族はみんな修煉者である)、会社の中では仕事を遅らせたりすることはなかったが、本当にいい加減にして、力を尽くしていなかった。またすべてに淡々とすべきで、名利に執着してはいけないということで、自分に言い訳を作った。他人から見るとよい人には見えるが、向上を求めず、まるで俗世間を見限ったかのようであった。
反迫害の、法を正す修煉になって、最大限に常人社会に符合する形式で修煉する方面で少し向上があった。会社ではとてもよい人と認められ、仕事を真面目に行い、責任感も強かった。しかしまだよくできてない所もある。例えば一部の親族と友人に真相を伝える時、理知が足りず、理性的ではなかった。自分の受けた迫害は厳重だったので、親族と友人の恐れる心も比較的強く、知恵を持って真相をはっきり伝える事ができなかった。かえって一部の友人に反感を覚えさせ、彼らに一日中ずっと私がまた迫害される事を心配させた。例えば全心で三つの事をやり遂げる時、一部の正常な交際も全部邪魔だと思い、子供の学校での成績にも無関心で、多少極端に走った。
もっと肝心な所は観念上の問題だった。三つの事をやり遂げる事が一番大事で、法が人間社会を正した後は何もかも変わって、現在の常人社会のすべては将来と新宇宙に対して何の役にも立たないと思った。これはまるで三つの事をやり遂げることと常人状態に符合する状態で修煉することを対立させたようだ。従って実際の修煉の中で自分に厳しく要求することができず、最大限に常人社会に符合する形式で修煉することに力を入れなかった。
大法弟子が歩く道は未来の人に残すもので、必ず師父の要求に従ってよく、正しく歩くべきである。多く残ってない貴重な時間に、私たちは更に厳しく自分に要求すべきである。邪悪な旧勢力は大法弟子を迫害すると同時に、大勢の世の人々を毒害した。大勢の世の人々は何も知らず大法弟子を傷つけていて、多くの大法弟子は生存と生活環境が非常に悪くなっている。私たちは法を実証し、真相をはっきり伝え、最大限に常人社会に符合する形式で修煉する中で、誠実、慈悲、善の心と正念でこれらすべてを変えなければならず、調和が取れていない環境を調和し、私たちを敵視する人に私たちを正視するようにさせ、私たちを誤解する人が二度と私たちに偏見を持たないようにさせなければならない。これこそ彼らを救うことである。
以上は個人の体得であり、正しくない所は同修たちからのご叱正を願う。
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/6/25/131124.html)
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