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時間は人を待たない


 文/河北大法弟子

 【明慧ネット2006年7月13日】法を正す時期の大法弟子の一人として、私は最近あまり良くできていない。三つのことは内心から重視することができず、また自分は邪悪に非合法に監禁されたことがあり、まるですでによりどころを得たように、自分は真に師父を手伝って法を正したと感じ、たとえいま良くできていなくても、あれらのいまだに表に出てない同修よりはましだと思った。これは正に私の内心に隠されたよくない思想で、まさにこの思想が最も肝心なとき私を緩め、だらけさせた。私は決して二度とこの思想の存在を許さない。今日これを書くことはこの思想を廃棄するときでもある。

 私も納得がいかないときがあった。1999年7.20の前の私の精進ぶりはどこへ行ったのか?その時、学法と煉功は私にとって、一番大事なことであって、いくら忙しくても堅持し、ずっと中断しなかった。法の中に浸っているその素晴らしさを未だに思いだせる。しかし非合法の監禁が終わってから私は常に自分が口実を探し続けていることに気づいた。例えば、朝遅く起きたら、明日は必ず早く起きる;正念の時間を逃したら、次回は必ず定時に正念を発する;真相を伝えるとき、真相説明を聞かない人がいたら、彼らには縁がない、やはり縁がある人を探そう、と思った。このような様々な口実により私は知らない内にだらけてしまった。そして一回一回自分の惰性、魔性を助長した。考えて見るとこれは確かにとても危険である。真に師父の教えてくださったように「ちょっとでも油断すれば、落ちてしまう」(『転法輪』)

 最初明慧編集部の「全世界の発正念時間調整のお知らせ」を読んだとき、心中は確実に震えた。私は法を正す過程がとても早く推進していて、時間は人を待たないと深く感じた。しかし私が歩いてきた道を振りかえって見ると、とても恥ずかしく思った。私は毎週週末の5、6、7時の発正念をよくやっていなかった。毎日4回の全世界大法弟子が同時に正念を発する時さえも良くできていなかった。突然明慧のお知らせを読んだとき、急に師父の「修煉には終わりの日があります」(『北米第一回法会での説法』)を思い出した。

 現在改めて考えてみると、私の態度は師父を信じる、法を信じることに対して意志がしっかり固まっていなかった。常に時間はまだある、まだ間に合うと思い、発正念という大法弟子が必ずよくやるべき、三つのことの一つを重視していなかった。私に法を正す時期の大法弟子の資格があるのか?今回私は本当にはっと気付いた。再び自分を緩めてだらけることはできない、しっかりやらないと堕ちてしまう。慈悲なる師父がまだ私のような精進しない弟子を待っていらっしゃると思うと私は本当に恥じ入った。幸いに全体的な法を正すことはまだ終わってない。私たちにはまだ機会がある。私は必ず師父の私に対する慈悲なる済度に背かないように、自分のやるべきことをしっかり行い、先史に立てた大いなる願望を実現し、公明で確実に師父について戻っていく。

 私の足りないところを書いたのは、あれらの私と同じ状態の同修らにもはっと気がついてほしいからである。時間は本当に人を待ってくれない!共に勇猛精進しましょう。師父にしっかりとついて行き、自分の行うべきことを行いましょう!

 以上は個人の体得であり、適当でないところは同修の慈悲なるご叱正を願う。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/7/13/132852.html