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考えと一念を放任しない

 【明慧ネット2006年7月7日】私は常人の考えや一念を放任して安逸をむさぼり求めたことによって、師父が按排してくださった三つの事をだらけてしまい、目覚めた時はすでにきわめて貴重な時間をたくさん無駄にした。この経験を書き出して、自分と似ているような同修に早く目を覚まさせ、残念な思いを多く残さないよう望む。 

 師父が按排してくださった三つの事をすべて行っていると思うが、しかしなんとなくだらけ、麻痺し、時間を引き延ばし、任務みたいに対処している気がして、時間を長く延ばせば延ばすほど、感覚がどんどん麻痺していき、三つの事をしっかりと行う力が足りず、よく行なっていく決心もなかなかできない。

 法を勉強する時、法を暗唱するからといって通読をあきらめて(実は時には1段もよく暗唱できなかった)、経文も新しいのだけを読んで、以前の経文を読まない。眠くなるとき休んだら頭がすっきりすると言い訳をして一休みして(これが常人の認識)、実際は業力の妨害であるが、認識できなかった。横たわるとぐっすり寝てしまい、目が覚めてとても後悔して、しかしまた繰り返して、変える決心ができず、煉功をするのはなお更明日にしよう、あさってにしようとサボった。この状態が正しくないと思うのだが、しかし、三つの事をやっているから、自分が法の中にいると思って、こうしてますますだらけてしまい、思想業力が隙に乗じた。各種の欲望もますます大きくなって、甚だしきに至ってはエッチな映画まで見て、正念がだんだんと弱くなり、自分を制御することもできなくなって、今振り返ってみると本当に危なかった、もう少しで深淵に落ちようとしていた。

 哀れみの偉大な師父はずっと夢の中で目覚めるよう悟らせてくださった。夢で試験の問題ができなかったり、山の上から滑り落ちたりしたが、いつも重視しなかった。先日夢を見て自分が一つ大きな船の横にある小舟に乗って、風波の中でひっくり返され、寒い水の中に落ち込んで、目が覚めてやっと自分が法からずいぶん離れていることを認識した。まず『転法輪』を一遍通読して、1日目第7講まで読んで、翌朝残った2講を読み終えた。法を勉強する時、師父は絶えず私に目を覚まさせた。一体どうしてこのようになったのかを振り返って、以下のようにまとめた。同修の慈悲の指摘を願いたい。

 1. 引き延ばす悪習

  事を行うときいつも明日に延ばし、明日はまた明後日まで延ばし、結局未解決のまま棚上げにする。癖になって、自分の主意識が強くない、決意を固めていない、結果、魔、思想業力はこの悪習を強めて、時間が長くなってやる事を少しずつ忘れてしまい、たとえ時間があっても思い出せない。結局するべき事はしておらず、法を実証する時期の大法弟子の威徳を作り上げる機縁を失ってしまった。 

 2. 安逸を求め、警戒心を緩め、時間の無駄を気にしない

 環境が比較的良くなると、また喜ばしい心が生じ、やっとほっとして少しリラックスができるかなと、緩んでしまう。この時人心と思想業力に隙を乗じられ、乗じられても一掃しようともしない、かえってたいした事はないと油断して、結局ますます感覚が麻痺して気が付かない。 

 3. 自分を厳しく要求しないで魔性を気ままにする

 自分の考え、一念を大法の基準で測るのではなく、甚だしきに至っては間違っているのは分かっているが、直ちに見分けて一掃するのではなく、かえって大したことがない、今後一掃してもよいと思って、結局「人為的に邪悪を養い」、魔性を放縦した。法からますます遠くなり自力で抜け出すことができなくなる。 

 4.独りよがりで、自慢して精進しようとはしない

 大法にいくつかの事をしたことによって、独りよがりになって、師父が大法を伝え私たちを地獄からすくい取って衆生を済度してくださったことが分かっていない、それに私達がいくら行ってもすべて自分のためにやっているし、自分のために威徳を確立しているので、自分が法を正す中で師父を手伝って自分のわずかな責任を果たすだけで、実は大法の異なる次元での基準までまだ遠いのだ。

 師父は純金の法理を説かれたことがある、黄金の塊に一粒の不純が混じっても純金とはいえない(師父の元話ではい)、常人の中にこういう言葉がある「千里の堤もアリの穴で壊れる」、私達はくれぐれも自分をゆるめてはいけない。修煉をすることは川の流れに逆らって舟をこぐことで、1オール力を緩めたら千里を退くので、自分の考え、一念に注意して、いつも大法で測り、大法に符合しない思いを一掃して、大法に同化して、たとえ人心の執着が一瞬に過ぎるとしても、それを許さない。さもなくば、それは他の空間で潜伏して機会を待って大きくなり、正念を相殺するので、直ちにそれを捉えて、その根源を探し当てて根こそぎにする。いつも法を師父として、妨害を排除して、光り輝く純金、真金までに修煉して、恩師の慈悲深い苦しみ済度を無駄にしないで円満して師父について帰りたい。最後に師父の詩『実修』で共に励ましたい。

 

実修

 法を学びて法を得る

 学んで比し修して比す

 事々く対照し

 做すところ到るは是れ修

 一九九四年十月七日


(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/7/7/132329.html