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四川省攀枝花の法輪功学習者数人が受けている迫害について

 【明慧ネット2006年8月14日】

 劉本洪さんは看守所で迫害され死に至る

 劉本洪さんは米易県牧草郷の法輪功学習者である。2001年3月4日、牧場の河川ダムで法会を開いた時、米易県政保科の向金發、楊梓華、周林、紫發祥と牧草郷治安室の周超などが劉本洪さんの家に押し入り家財を差し押さえ、大法の本を押収して行き、劉本洪さんは1000元を恐喝された。劉本洪さんは彼らによって県公安局に連れて行かれ、両手に手錠をかけられ二階の通路に吊るされ、水を飲む事を許されず、20時間あまりも寝る事を許されなかった。その後、米易の看守所に押し込められ痛め付けられ続けた。劉本洪さんは転向する事も邪悪に従う事もしなかったので、看守所で正体不明の薬物を注射され、頻繁に眩暈や嘔吐を催し意識が朦朧とするようになった。劉本洪さんは2002年9月12日に家に帰されるまで、米易看守所に18カ月と8日間も不法に押し込められていた。家に帰ってから正体不明の薬物の毒素症状がいつも劉本洪さんの身体に現れ、彼を苦しめた。2005年12月17日に冤罪がはれないまま、劉さんはこの世を去った。享年73歳だった。

 張正焕さんたち法輪功学習者が迫害を受ける

 2006年5月24日午後3時ごろ、丙谷鎮の党委員副書記である楊武銀は10人ほどの公安局員を引き連れて、法輪功学習者の張正焕さんの家に押し入り、国安大隊の楊梓華、周林、徐興などのまるで匪賊の様な者たちは不法に家財を差し押さえ、師父の肖像や大法の本や大法の資料、テープレコーダー2台と大法のテープを奪い去った。午後5時過ぎ、法輪功学習者の張正焕さん、張遠会さんを丙谷派出所に押し込め、自白強要などの手段を用い、彼らを不法な集まりであり、不法な煉功であると罵った。24日の午後3時過ぎから25日の早朝3時半まで彼らを看守所の中に押し込み、悪辣な警官が強制的に彼らに手錠をはめ、食事を与えず、トイレにも行かせなかった。看守所にいる間、大雨が降っており、非常に寒く、悪辣な警官は法輪功学習者の家族に服を送らせる事を知らせず、学習者たちは薄い服を着て三日三晩過ごす事を強いられた。法輪功学習者の張正焕さんと張遠会さんはこの様にして14日間不法に押し込められていた。

 瀋徳志さんは2000年6月28日に陳情のために北京に到着、7月1日に不法連行され、攀枝花北京事務所で悪辣な警官によって身の回りの生活費や交通費を全て調べ上げられ、その後に米易公安局から来た郭強などによって拘束され、罰金として200元を恐喝され、そのまま攀蓮鎮洗脳チームに送られた。ここでは法輪功と師父を罵るビデオと新聞を強制的に見せられ、聞かされ、もう二度と法輪功を勉強しないという誓約書を無理やり書かされた。押し込められた小屋の中では手下の陳友軍、小万が木の棒で止めどなく瀋徳志さんを殴りつけ、強制的に走らせ、事務所や道を掃除させ、眠る事を許さなかった。食事は一日に一食しか許されなかった。もし誓約書を書かなければ、暴行は止まらず、迫害も止める事がなかった。瀋徳志さんが家に帰る時、また罰金として700元を恐喝され、さらに北京への交通費250元をとられた。家に帰ってからは、鎮政府が頻繁に人を派遣して瀋徳志さんへ嫌がらせを加えるようになった。瀋さんの迫害に参加したのは、鎮党委員書記の蒋興文、副書記の厳継清、楊庭洪、鎮長の蒋徳才、手下の陳友軍、小万、以上である。

 張遠林さんは六度連行され迫害を受けた

 1999年に610オフィスが出来た後、張遠林さんは法輪功を勉強し続け、真善忍に則り良い行いをしていただけで、ならず者による連行を六回も受けた。一回目は1999年10月25日に米易丙海で法会を開いた時、米易の公安局員である向金發、楊梓華、周林、紫發祥などによって公安局に連行され迫害を受け、24時間後に釈放された。二回目は1999年11月24日北京に法輪功の正しさを証明するために陳情に行った時、陳情事務所に着いた途端、門の外にいた何人かの公安局員が張さんらを捕まえ暴行を加え、張さんらは攀枝花北京事務所に送られ、その後に米易に連行され9日間にわたる不法拘留を受けた。

 三回目は2000年2月北京に入り法を遵守していたにもかかわらず、天安門広場で悪辣な警官によって捕まり車の中に押し込められた。車の中で経文を覚えていると警官にめった打ちにされ、広場派出所まで連れて行かれた。それから攀枝花北京事務所に押し込められ、悪辣な警官たちの取調べを受け、攀枝花北京事務所に一週間不法拘留された。警官は法輪功学習者たちに衣服、靴下を取るように脅迫し、張さんが持っていた現金600元はならず者によって奪い取られた。2月の北京は非常に寒いのだが、夜寝る時には布団を与えられず、度々ならず者の酷い暴行を受けた。攀枝花北京事務所に一週間不法拘留されてから、米易政保科の周林などによって米易に連れて行かれ、看守所に一カ月間不法に押し込められた。張さんが家に帰った時、またも政保科の向金發から罰金として200元を恐喝された。

 四回目は2006年6月30日丙谷五大四隊で法会を開いた時、丙谷の郷政府職員である鐘文武、伍世栄、何転キョウ 、鄧定銀、厳文猛、呉世兵などによってこの法会に参加した法輪功学習者の全員が郷政府洗脳チームに捕らえられ連れて行かれた。迫害の方法は一晩中走らせる事で、学習者たちは三日間にわたって一晩中走らされ眠る事を許されなかった。白昼に太陽の下に思いっきり晒され走らされ、もし止まったりすると警官たちにめった打ちにされた。夜は壁際に並べさせられ(両手は壁につけたまま)、もし手を下ろしたりすると殴られたり蹴られたりし、さらには竹の棒を使って殴られた。この時、張さんは罰金として300元をとられた。

 五回目は2000年12月15日に真相資料を配っていた時であり、12月19日の夜に米易公安局の楊梓華、周林、紫發祥、饶显文など6人が張さんの家にやって来て家財を不法に差し押さえ、大法の本を奪い取り、張さんを県公安局に連行して行き二階のベランダの鉄柵に手錠ごとくくり付けた。その後、紫發祥、饶显文らは張さんを牢獄に吊るし、食事を与えず、睡眠を許さず、トイレに行く事も許さず、悪辣な警官たちは殴る蹴るの拷問を加え脅迫した。その後、張さんをベランダの鉄柵に7日間もくくり付けた。張さんは迫害を受け階段から突き落とされ、足を骨折し、足の腫れは大きく、高熱を出した。しかし、警官たちはそれでも釈放せず、警官の周林は彼を鉄柵にくくり、張遠林さんは痛みのあまり気を失った。

 2000年12月26日に張さんは看守所の中に不法に押し込められ、2001年9月7日まで実に9カ月間にわたって拘束された。その後、四川省の楠木寺女子労働教養所に送られた。労働教養所第7隊隊長の張小芳は法輪功学習者たちに真善忍に対する信仰を捨て去るように強要し、法輪功と師父を罵ったビデオと書籍を見るように強いた。法輪功学習者は度々悪辣な警官と受刑者の酷い暴行、電撃、灌食、拷問などを受け転向を迫られた。

 2006年5月24日に張さんと何人かの法輪功学習者が一緒に勉強していた時、ならず者によって通報され、六回目になる連行を受けた。米易政保科の楊梓華、周林、徐興、李小剛、唐某某、丙谷郷政府の楊武銀などが家の中に押し入ってきて、家の中を荒らし、大法の本、師父の肖像や真相資料を奪い去った。4人の法輪功学習者が丙谷派出所に連行され、さらに米易公安局に押し込められ、ずっと手錠をかけられたまま牢獄に押し込まれた。二日目の4時ごろに看守所に送られ7日間も不法拘留され、5月31日にやっと釈放された。

関係箇所の電話番号などは省略(詳細は明慧ネットの中文を参照)

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/8/14/135513.html