修煉の心得を書くことにおいての悟り
文/台湾大法弟子
【明慧ネット2006年5月31日】時には私が自分の修煉の心得を書こうとすれば、ある声が私に「あなたはこれ以上書かないで、あなたは書きすぎてすでにプライバシーもなくなったよ、あなたはこれだけ自分がよく修めたと書くのは、自分を誇示しようとしているのではないか、多くの同修はあなたより何倍もよく修めている、あなたは本当に身のほどを知らない、あなたがそんなにたくさん書いて、ほかの人からあまりにもくどくど言っていると嫌われるのではないか?
私はこれらの考えが一体どこでからきているのかとても驚いたが、しかし私はとてもはっきりわかっていた、これは絶対に先天的な私ではない。この後天的環境、染めもの甕の中で私達は自分を保護することを身に着け、自分の執着が他の人に見られ、笑われるのを恐れ、あまりにも他の人が自分をどう見ているかを気にしすぎ、他の人に自分の観点が認められないのを恐れているのだ。しかしながらこれら後天的に形成された各種の概念、考えのすべては、私達の前進を妨げる大きな山である。ひたすら少しずつ、これらのものを捨て去ることで、心性は次第に昇華していくものである。
今も覚えているが、去年私はある夢を見た。私のとなりにあった大山は削られ、まもなく平らになろうとした。それ以後私が一篇の心得を書くたびに、思想境地は少しずつ昇華したのだ。本当に言葉で言い表せないほどのものだった。常に修煉心得を書く同修みんなに、似たような体得があった、つまり文章を書く過程が思想を浄化する過程なのだ。心の底からずっとある声が私に「書いてはいけない、書いてはいけない」と言ってきたが、しかし私は内に向けて探し、心得を書くのは自分の修煉過程の一部分であり、まるで今私が電話をかけて真相を伝えることのようで、言えば言うほどうまくなり、それらはすでに私の現段階での生活の中の一部となり、しなければ、食事を取らず水を飲まないかのようだ。
ずっと私に「これ以上書いてはいけない」と叫ぶ声は誰なのかわからないが、私は後天的観念が形成した私であるはずだと思った。この観念と先天的本当の私はシーソーゲームを行ない、それは私がそれを捨ててほしくなかった。順調に書いている時に、それはまた私に邪魔をして来た、私をお手洗いに行かせようとして、私がそれを取り除くのを妨げようと企んだ。
うん、しかし私はすでにそれを捉えて、もはやこれ以上どこにも逃げることができない。私はそれと境界線をはっきり引いた。あの観念が形成した私は本当の私自身ではない、私は引き続き修煉の心得を書いて同修と分かち合う、それは大法が私達に与えた邪悪を震え上がらせる法器なのだからだ。「利筆は華章を著(あらわ)し、詞(ことば)剄(つよ)く句蘊(つ)みて強し、科学は身洞に満ち、悪党の衣(ころも)を?光(はくこう)す(注:すべて剥ぎ取るの意)」。(「学員の文章を読む」)毎回私が書いた文章が大法のネットに掲載された時、私はその文章はすでに法力を具えていて、邪悪を窒息させられ、すでに他の空間の執着物質を解体したと思った。
個人のほんの少しの心得なので、同修の慈悲の指摘を請う。
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/5/31/129244.html)
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