子供が私に与えた啓示
文/大陸の大法弟子
【明慧ネット2006年8月18日】私は仕事をしていたときに電話が鳴り、5歳の息子が出た。
そして、息子は電話の向こうの人に対して「僕と母さんはみな大法弟子です」と話したのが聞こえてきた。
数日前、同修の交流文章を見て、私も自分の恐れる心でこの命が法を得ることを妨害してはならないと思った。そして私は先日、この子に師父の説法を聞かせ、一緒に『洪吟(二)』を暗記し、今日はこの子に動功を教えた。
電話の向こうの人はおそらく、大法をけなすことを言ったのだろう。そしてこの子が「あなたは知らないだけ、法輪大法は素晴らしいのです」と話したのが聞こえてきた。
そして向こうの人は「どうして」と聞いたのだろう。この子は「大法はたくさんの人を助けてくれたからです」と話した。
……
そのとき私は、電話の向こうの人はこの子の叔父でよかったと思った、もし他の人だったら…。
昼休みのとき、私は息子に「まじめな話を聞いてもらいたい」と話した。
「何のこと?」
「時には言わない方がいいことがある。他の人に対して、自分は大法弟子と言う必要はない」と私は言った。私はこの子が幼稚園の中で何でもはばからずに言うことを恐れていた。この幼稚園は私たちの住む地区にあり、昔からこの子はいつも、私たちの師父は誰などと聞いていた。私はこの子に教えてから、この子はいつも幼稚園の友だちに、すべてを言い出すようにしていた。それ以来、私はこの子の修煉に対する感覚をなくそうと思って、この子に修煉について言及しなくなった。
しかしこの子は突然、「他の人に言えば、その人も修煉できるじゃない」と言い出した。この子の一言を聞いて、私は自分の非常に良くない心に気づいた。まずは恐れる心である。子供が本当の話を言い出すことで、自分が大法を修煉することを知られて、面倒なことになるのを恐れていた。「人間の執着と、法を証明し衆生を救い済度することを妨害する観念はみな、取り除かなければならないものです。神の道を歩んでいる修煉者にとって、これら常人の心の執着を取り除き、これらの観念を変えることはそれほど難しいことなのでしょうか? もし修煉者がこれをも取り除きたくなければ、修煉者としての現れはどういうものなのでしょうか?」(「最後になればなるほど、精進すべき」)
私はそのとき、この恐れる心のため、つまり息子が言い出すのを恐れてこの子が修煉するのを妨げ、一年以上修煉することを遅延させた。今私はこの子の母親であるが、しかしこの世界に来た当時、私たちは宇宙の中の覚者である。機縁のため同じ所に転生し、私たちはもともと互いに誰一人として忘れてはいけないと注意づけた。最後に返るとき、私はどのような顔でこの法を得るために来た生命に対して向き合えるのだろうか。私は今、自分の恐れる心のため、この子が他人に真相を伝えることを妨げ、つまりこの幼稚園にいる縁のある人が救われるのを阻止しているのではないだろうか。自分を守るため、他人が修煉することや救われるチャンスを放棄させることを、もう何とも思わない。どれほど自己中心的な人間だろうか。新しい宇宙の覚者となる資格はあるのだろうか。子供の純粋で素直な一言が、私に自分の非常に大きな私心を見せた。
私たちは宇宙の根本的な大法を修煉しており、宇宙で最も正しく高いレベルにある存在である。師父はすでに輝かしい栄華を大法弟子にくださったのだ。しかし、どうして正々堂々としていられないのだろうか。なぜ、認めようとせず、子供に言わせないようにするのだろうか。私はこの最も貴重で偉大で素晴らしい大法をあるべき位置に置いたのだろうか、いや置いていない。
もし、迫害の前だったら私はこのようにしたのだろうか、いや決してこのようにしないだろう。では、何を意味しているのか。つまり、私はこの迫害の環境を認めている。旧勢力が私たちに強制した按排を認めたことになる。師父は「私たちは旧勢力そのものが現れたこと、それらが按配した全てまで否定しており、旧勢力の存在自体を認めていないのです。私たちは根本から旧勢力の全てを否定しています。旧勢力を否定し排除する中で皆さんが行った全てこそ、威徳あるものです。それらが作った魔難の中で修煉するのではなく、それらを認めない中で自らの道を正しく歩むのであって、旧勢力そのものによってもたらされた魔難の現れを消滅することさえ認めないのです。」(「2004年シカゴ法会での説法」)
しかし、その観念がまだ負けまいとして、私の口を利用して息子に対して、「実は、彼らにあなたが大法弟子であることを知らせなくても、彼らを救うことができるのよ」と言い訳をした。そして息子は「あれ、忘れたの?この前、レインボーブリッジで母さんはある新聞売りの人に、どうか大法弟子の素晴らしさを覚えてください、あなたたちの生命に非常に重要なのです、と話したのを忘れたの?僕はまだ覚えているよ」と話した。最近、この子が私に、私が真相を伝えることについて言及したことはないし、この子は私が何をしているのか分からないと思っていたが、どうやらそうではないみたいだ。
しかし、私はこの子に「私たちはしばらくの間、彼らに教えてなくてもいいでしょう」と話した。
この子は続けて「それではいつ教えるの?その人が死んだとき?」と話した。この子は死んだときに真相を知ってももう遅いと話しているのだろう。そして、この子はまた「まさに赤い目の獅子の物語のように」と付け加えた。この子に新唐人新年祝賀音楽会を見せたことがある。だから、この子はその物語を知っている。私は突然、これらの話はこの子が言い出したのではなくて、師父がこの子の天真で無邪気な口を通して、私の執着心を露にさせたのだと感じた。私は天井を見上げて、「師父、私はどうやら本当に間違っていたようです」と独り言を言った。
お城の中のすべての人たちは、自分が馬鹿であると思われたくなく、裸の王様の見えない服装を喝采したとき、天真無邪気な子どもが本当のことを言い出し、すべての人々に思い知らせたのだ。今日、この幼い子どもも本当のことを言い出している。それは、この子が大法と真相を伝えることを証明している。私は、それほど純真でいられないだけでなく、自分の観念で、彼が真相を伝えることを阻止しようとした。
子どもは天真無邪気だ。天真、これこそ生まれながらにして持つ純真ではないだろうか?これこそ、宇宙の特性に符合するものではないだろうか。
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/8/18/135791.html)
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