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正しい信念の道のり


 文/ワシントンDC法輪功学習者

 【明慧ネット2006年8月25日】

 修煉の始まり

 私は1999年7月の初めに法を得ました。2002年2月に私は北京へ行き、他の学習者とともに天安門広場で平和的な抗議を行う予定でした。集合予定のその日、天安門広場の至るところに警官が配置されていました。集合時間が近づいたとき、私は学習者が広場で逮捕されている光景を見ました。私たちの計画は実行し難いようでした。私は選択をしなければなりませんでした。私は自分に問いかけました。「アメリカに戻るか、それともこのチャンスを利用して法を実証するか? あなたは本当に真理のために、すべてを顧みず、立ちあがれるか?」。 そうだという答えを得て、私は人民英雄記念碑の前で一枚の大きな横断幕を開きました。

 私は警官にあるホテルの地下室へ連れて行かれました。一つの薄暗い部屋で警官は私を脅し、数時間私を囲んで尋問しました。彼らは私を転向させようと、私に法輪功修煉を放棄させようと試みました。その邪悪な環境の中で、私は発正念の威力を感じました。拘留されていた最初から最後まで、私はずっとはっきりとした状態を保っていました。深夜になり周りが静まってきたとき、私は、私はアメリカ国民だ、しかし安全にアメリカへ戻れないかもしれない、と意識し始めました。私は中国へ着いてから恐れを感じ、彼らが私を虐待することを恐れたのです。私はまじめに、自分の大法に対する信念を確かめました。私は理知的に多くの恐れる心を克服しました。私は更に精進することを誓いました。翌日、私は国外追放されて、アメリカへ戻ってきました。

 中国で迫害の残酷さを少し味わった後、私は大法の主体——あの苦難に満ちた環境の中で修煉し、真相を伝えている中国の学習者に対して更なる深い敬意が生じました。私は安全にアメリカへ戻れたことをとても嬉しく思いました。私はすべてを失う危険を冒して、中国へ法の実証に行きましたが、修煉の中で、私が歩むべき道はまだとても長いのです。複雑な常人社会での修煉は、命を放棄することよりもっと難しいのです。この楽な生活環境の中で、現実的な利益と誘惑が至るところに存在する中で、私は時には緩めてしまい、常に大法で自分を要求することができませんでした。かえって常に常人の理で測りました。私たちは大法に従うべきで、三つのことと日常生活との関係をうまく処理し、更に良く行い、全力を尽くして更に多くの世の人々を救い済度すべきです。私はみなさんとともに私が修煉の中、心性を向上させた体験と一部の改善すべき不足点について交流したいと思います。

 英語大紀元の仕事をする中で修煉

 過去一年間、私は大部分の力を英語の大紀元に注ぎ、英語の大紀元を利用して真相を伝えました。一年前、ワシントンDCで英語の大紀元を創刊する準備をしていたとき、私は責任者の仕事を担当すべきかどうかためらっていました。

 当時、私はフルタイムの常人の仕事を持っていて、毎週2回中国語の大紀元時報を配達し、つねに大量の時間をいろんな大法の仕事に費やしていました。私は自分がすでにとても多くやっていると思っていました。私は実は自分を常人として扱っていて、法で厳しく自分に要求していませんでした。当時私は気ままに振る舞う生活を楽しんでいて、仕事を増やしたくありませんでした。

 英語の大紀元がずっと直面している最も重大な問題は人力と物資が足りないことです。最初私は他の人がこの問題を解決してくれることをずっと待っていました。後になって、他人に頼ることは間違っている、私は自分の道を歩むべきだと意識しました。そして私は自分に問いました。あなたにまだできることは何か? 私は、もし私が更に多くの暇な時間を犠牲にすれば、更に多くのことができることを知っていました。しかしこの執着はたとえほんの少し捨てようとしてもとても苦痛でした。一歩一歩この執着を放下してこそ初めて更に多くの英語大紀元の仕事を負担できるのです。

 始めたばかりの当時、現地の学習者が提供できることは非常に限られていました。一つの新聞を管理し、経営しなければならない挑戦と不確定性に直面して、私は気落ちしました。その後、私は一人一人がみな自分の道を歩まなければならないと悟りました。他の人が手伝ってくれなくても私は怒ってはならず、「今の情況の私たちが、どうやってこのことを成し遂げるか」と考えてもいけない。私は他人に頼って自分の道を歩んではいけません。苦境の中で内に向かって探すと、常に自分が十分行ってないところを見つけることができました。一部の仕事は手が届かないほど遠く見えましたが、法に対する固い信念に頼り、大法に導かれて成し遂げました。

 当然ながら、一部の仕事はみなの協力、調整が必要です。他の学習者が私と協力するとき、順調でないとき、私はやはり怒ってはいけません。私を困らせるすべては執着で、すべて修煉するよい機会でした。毎回内に向かって探すと、常に自分の執着を見つけることができました。時には互いに関連のある複数の執着心を見つけることができました。時にはまったく自分が気をつけておらず、他の学習者と十分な交流ができてなかったため生じた誤解でしたが、かえって自分に口実を作り上げ、忙しく時間がないからと解釈しました。私がもっと多くの時間と精力を使って、仕事をもっと詳しく、はっきり解釈した後、私達の協力は順当になりました。

 以前、毎回困難が増大するとき、私は常に英語大紀元から撤退したい念が生じました。私は常人のように困難に遭遇すると退いて、安逸をむさぼり求めました。実際、逃避は問題を解決できません。執着心と業力はずっと私に伴います。内心の苦痛、必死になることはすべて執着心によりもたらされたことではないでしょうか? これはまさに自分を認識し、執着を取り除き、心性を向上させる良いチャンスではありませんか? この点について認識できると、また困難に遭っても、私は弱音を吐くことはありませんでした。

 ワシントンDCの英語大紀元は週刊で、毎週いろんな締め切り期限があります。報道、編集、組み版の作成、校正と発送のすべてを時間通りに完成しないといけません。しかし時には私は本当にやりたくない気持ちになります。それはただ私の人間としての一面です。1人の修煉者として、私は以前のように感覚に従って行うことをやめました。自分がやったことの重大なる意義をはっきりとした認識した後、私は自分の感覚がどうであれ、常にやらないといけないことをしっかり行ないました。

 大法に対する信念と正念を固め、私は本当に苦を楽しむことができました。

 精進の重要性

 過去の数年間の修煉の中、とても大きな向上がありました。然し一部の執着と古い習慣は依然として頑固です。私はずっと物ごとを重要ではないと思うことは常に無視しました。やっても、やらなくてもあまり大きな関係はないということでした。私が小さいと思ったことの大部分は日常の仕事と家庭のことでした。暫く経つと、これらの小さな問題は大問題になりました。この問題は実際私が修煉の中での一つ更に大きな問題の表れです。それは私が各方面ですべて精進していなかったからです。

 私は修煉の中、重要に見える執着は比較的重視しましたが、些細な欠点については、そこまで気をつけませんでした。私は以前いつも小さい問題は妨げにならないと思い、将来これらの小さい執着をなくす機会はいくらでもあると思いました。こうして、私は時間をうまく利用できませんでした。修煉で精進しないと、性格上の微小な方面であっても、問題は重大です。これは私の心性全体のレベルを低下させます。

 私は常に忙しさを口実に煉功しません。場合によっては確かに時間がないときもありますが、数週間煉功しない如何なる理由もありません。私は常に疲れを感じます。私は仕事の効率を向上できなかったため、貴重な時間を無駄にしました。これにより私は仕事、家庭と大法の仕事との関係をうまく処理できませんでした。同時に、このような疲れた体だと、学法と発正念の質も落ちてしまいます。三つのことをしっかり行うには、煉功を軽視してはいけません。ある学習者は私に大紀元の仕事の量を減らす方法でこの問題を解決するように提案してくれました。それは私には受けいれられないことでした。大紀元が直面しているもっとも重大な問題は人不足です。どうして減らせるでしょうか?

 私は必ず各方面で更に良くやるべきです。私は必ず更によく行なうと、すべての学習者に宣言します。

 真と善

 師父は私たちに、法を実証する中でのすべては、私たち自身のためにやっていると教えてくださいました。私はこれに対して困惑を感じました。これはまるで善と無条件で世の人々を救い済度することと互いに矛盾するようでした。師父はどうしてこうおっしゃったのでしょうか?これは私たちに試練を与えているのでしょうか?

 1999年に迫害が始まって以来、師父は長い間説法されませんでした。多くの弟子は無私に真相を伝え、世人を救い済度しました。私自身も真相を伝える列に入りました。私は大法から何かを得ようと考えたことありません、まったくの無私の行為でした。だから長い間、私は何か良いことを得られなくでも、私は真相をはっきり伝えるとき、個人修煉と同様に精進できます。しかし、私は過去の修煉の中での行為はそれほど純粋ではありませんでした。私は無条件で他人のために多くの犠牲を払うことはできますが、私は本当に世人を救い済度するために私のすべてを払えるでしょうか? 私は一つ一つのチャンスをうまく利用して、世人を救い済度したのでしょうか? 安逸心のため、私は常にあまり精進しません。心では、全力を尽くして、重要なことを良くやればいい、しかも私はすでにずいぶん多くやった、と思いました。

 大法は私たちを激励し、私たちをさらに精進するように手助けしています。大法は私たち大法弟子を救い済度するだけでなく、数え切れない衆生を救い済度しようとしています。師父は私たちに、法を証明する中で行うすべては私たち自身のためであると教えてくださいました。良く修めなければ、直面するのは恐ろしい結果です。私は、師父が私たちにこの法を与えられたのは、私たちに試練を与えるばかりでなく、更に洪大な慈悲心からであると悟りました。師父が私たちに更に多くの真相を教えてくださるのは、本当に私たちを救い済度したいからです。

 現在、私は法を正す中で、「洪大なる慈悲」と「広大なる仏恩」に対して更なる理解ができました。これは私の現段階の浅はかな認識です。

 信

 私はすでに7年間修煉しました。何回か、人間の観念を放下できず、私は大法を疑いました。しかし毎回、私は更に動揺しなくなりました。法は円容で、生命と宇宙の真理を解釈できます。数年前法を得たとき、私は自分がすでに一生追求してきた真理を見つけたと分かりました。修煉の中、私はまた次々とこの真理を見つけました。真理はずっと私の目の前にありました。

 (2006年米国ワシントンDC法輪大法修煉体験交流会発言原稿)

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/8/25/136280.html