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自分自身を本当の修煉者として

 文/ワシントン大法弟子

 【明慧ネット2006年9月1日】師父は『2002年度ボストン法会での説法』で次のように述べられた。「大法弟子がどんなことをしても、法を第一位にしなければなりません。どんなことを扱う時でも、まず法のことを考えなければなりません」。 しかし、私はいつ如何なるときでも、この基本的な修煉原則に従って修煉することができなかった。

 私は師父の1999年以後のすべての説法を読んだ。毎回この基本的な原則を読むとき、この基本的原則を心の中に修め、常に注意深くあるべきだと理解した。これまでの修煉過程を振り返ってみると、法を第一位にすれば、何ごとも順調に運ぶと気付いた。ある一つの次元に止まって進まないとき、突然一つの法理を悟り、それを修煉の中で実行し、難を突破することができた。これはやはり法を第一位にしたからではないでしょうか? 例えば、朝、法を勉強することを第一にするなど。法を同化することが自分にとって一番大事なことであるから、この点さえ押えれば、その他のことはすべて順調に運ぶはずである。

 最近、新しい住所へ引越したばかりだが、多くの大法の仕事を担当している。常人の技能を多く習得しているため、非常に忙しくなった。やらなければならないことが多過ぎたため、多くの仕事の質が悪く、場合によっては完成できなくなったこともある。これと同時に法を勉強する時間も少なくなり、法を勉強する質も落ちてしまった。専念して法を勉強できないからである。このような状況はかなり続いたが、本当に自分自身に向けて、修め始めてから、やっと状況が変わった。

 内に向けて探し始めたら、私が常人の技能をそんなに多く習得しているのは、主に以下の三つの原因によるものだと気付いた。第一の原因は、ある一つの技能が一定のレベルに達したときに、周りから称賛の声が耳に入り、自分もこの称賛の声に満足してしまう。言い換えれば、この技能において、更なる進歩の気持ちがなくなるのである。それで、その他の技能の挑戦へと進む。第二の原因は、技能上において、その他の同修をサポートし切れないことを恐れている。この恐れは時間の問題ではなく、同修に悪い印象を与えたくないからであり、トラブルメーカーになりたくないからである。第三の原因は、これは最も重要な原因であるが、すなわち苦しみを甞めたくないからである。

 例えば、初めてギターを習うとき、6カ月の猛練習で、ストローク奏法ができるようになり、流行の曲を弾けるようになった。何年か経って、すべての基本的技法を覚えた。しかし、それより上達しようと思えば、私が苦痛或は面白くないと思っているものを勉強しなければならない。例えば如何にリズムに合わせて弾けるかなどである。しかし、これらのことは自分にとって無味乾燥だ。しかしプロの演奏家はこのような無味乾燥なことを絶えず訓練しなければならないのである。これこそプロになる理由である。今の自分はもっと「失わなければ得ず」の道理をより理解ができたと思う。私は以前から辛抱強く努力してこれを習得しようと思わなかった。これらのことは自分にとってよいものであるにしても、実用のみを追及し、後のことを全然考慮しなかった。その他の技能の習得においても、同様な気持ちであった。沢山のことを勉強したけれど、結局、優れている上に更に磨きをかけることはなかった。

 長期に亘って発見できなかった執着心を意識し始めたとき、本当に嬉しかった。この執着心は修煉の中へ持ち込まれ、長期に亘って、自分を高めていく障害となった。そのすぐ後に、さらなる執着心に気付いた。それは、技能上において辛抱強く努力していきたくないだけでなく、すべての方面において辛抱を避けようとしている。もしほんとにそうであれば、私はむしろ修煉そのものを避けようとしているのではないでしょうか?

 師父は『洪吟・法輪大法』の中で次のように書かれた。「功修有路心為径 大法無辺苦做舟」(功修路有りて心を径と為す 大法無辺、苦を舟と做す)。安逸を求めるため、辛抱することを恐れた。苦しみを嘗めることは修煉を高めるチャンスであり、困難が来たとき、それは自分の修煉の一部であると考えず、ただのトラブルであると思うばかり。辛抱することは当然気持ちがよくないのである。この思いがあるからこそ、自分の意識の中で、一つの僅かな困難であっても、執着心により自分の心の中でその困難を山ほど大きく拡大させ「私はこの困難を克服することはできない」と思ってしまう。これは自分の執着心により発生した「自分の心より魔が生じることである」。自分自身の正念の心が抑制されたとき、常人の観念や恐れる心によりほんとの自己を失ってしまう。

 すべての問題を自分の修煉の道における障害だと思った。私は何時もこう思った。「この問題を解決したら、法を勉強する。この問題を解決したら、煉功する」。しかし、もしそうすれば、私は最早『転法輪』の中に言われている家の中の雑用をすべて済ませてから、修煉する人になったのではないでしょうか? 私は何時も一つの安逸の環境の中で修煉したいと幻想する。しかし、もっとも複雑な環境こそ最もよい修煉の環境である。修煉し始めたばかりのことを思い出すが、第2功法をやるとき、もし、手を少し下ろしたら、少し楽になる、そうすれば入静もできると思ってしまう。自分の修煉に対して、常に楽な方法を考える。しかし、逆に、如何なる環境の中でも入静できれば、自分の修煉における次元はすでに高まっているのではないでしょうか?

 大法に関連する仕事は、修煉そのものであり、常人の仕事ではない。常人の技能が優れても、修煉は欠かせないのである。自分にとって、すべてのことは修煉に関わるものであれば、大法に関連する仕事の中で出てきたトラブルは、修煉と関係がないはずがない。しかし、時には、自分は、常人の心で大法に関連する仕事に対処している。つまり、これらの任務をやり遂げるという気持ちである。私は本当に大法に関連する仕事を神聖的なものであると思っているのだろうか? 本当に内に向けて修めているのだろうか? これらの仕事を協調する気持ちでやっているのだろうか? 法を第一にしているのだろうか? これらの問いに対して、自分はすべて100%「はい」と答えられない。このように自分は修煉における問題を意識してきた。自分はまるで、寺院を修繕することが修煉そのものであると考えている坊主のように、真に自己の心性を高めていないのだ。大法に関連する仕事に多くの時間を費やしたが、しかしその神聖さは見失ってしまった。私の出発点を法の下に置いていないからだ。

 日常の生活においても、常に自分を修煉者としていたのだろうか?表面上においては、自分の行為は厳格に律することをしていたかも知れないが、しかしそれは表面上、人が見えるもののみに過ぎない。心性こそ修煉の次元を決定するものである。すべてのとき、すべての思いは修煉に対する試練である。ある時は、私は自分の頭の中の悪い念を排除することはできたが、しかしその悪い念は段々悪くなり、強くなった。その後すぐ情によってコントロールされた。今「邪な悟り」に対する新たな認識を持つようになった。自分にとって、「邪な悟り」は、情でもって問題を認識し、それによって無理に自分の理解や認識が正しいと思い込む。なぜ自分は法の下で問題を認識できないのだろうか? 長期に亘り、常人社会において、自己の意識を放任してしまい、自分の心の中の明晰な部分もぼやけた。もし我々が自己のことを放任してしまうと、常人の要素が法から遠く離してしまう。法の勉強は我々の正念を強くしてくれる。法に基づくことこそ、正の作用、正の影響を発揮することができるのだ。我々の修煉の道は狭い、いま、修煉の過程において、一歩歪んでいたらどのような影響になったのかをやっと認識できた。

 ある修煉者たちは「私は旧勢力の迫害を認めない」という言葉はなぜそんなに大きな役割があるのかがやっと分かってきた。それはこの言葉は呪文のような力を持っているのではなく、その言葉の背後に正念が存在しているからである。この言葉が口から飛び出した途端、正念と確固とした意識は神のようにエネルギーを発揮し、常人の観念を徹底的に排除することができる。常人の観念は旧勢力の按排と緊密に結合している。なぜ同修たちはよく「病業」を克服することはそんなに困難なのかと言うのだろうか? 大法は無辺である。誰でも例外でない。ただ、人々は「病気になる」という観念があまりにも習慣になり過ぎて、この観念を捨てられないからだ。以前、明慧ネットの交流文章を読むとき、何時もその文章の中の「ポイントとなる言葉」を探しがちだった。「この同修はこの言葉を言ったから、邪悪が消えた。その同修はその正念があったから、邪悪の魔手から逃れられた」。なぜこれらの「ポイントとなる言葉」が、自分にとって役割を果たさないのだろうか? 私は表面上の言葉だけを模倣して、心の中で依然として常人の観念で、真に神の観念を発揮できなかったからだ。

 私はさらに、次のことを認識できた。我々の修煉の道において、偶然なものはない。如何なる常人のことも我々に影響することはない。常人のことがそんな大きな作用を果たすはずがない。当然、表面上においては、常人的なことはあるが、しかし、偶然は存在し得ないことであり、すべてのことは我々を高めるために按排されたものである。常人の考えでは、これらのことをうまく処理することができない。正念こそ我々を高めるのであり、常人の考えは我々を誤って導くだけである。

 あるとき、同修が彼女と娘の修煉体験談を聞かせた。それは本当に感動的な話で、如何に執着を放棄し、正念を堅持するかという体験だった。彼女の堅持する心が一番印象的だった。話の中で、彼女はビザを申請して、外国に行く予定だった。しかし、領事館で考えられないようなパソコンのシステムトラブルが発生し、短期間にシステムが回復しなければ、予約済みの飛行機に遅れかねない。このとき、常人なら、もし、システムが回復せず、ビザがもらえなければ、飛行機に乗れなければ、スケジュールを遅らせなければならないなどのことを考え、常人にとっては、どうしようもないことであろう。しかし、このときこそ、正念を持っている修煉者である自分たちにとっての試練である。彼女は自分の正念を堅持し、常人の考えを排除し、「どうしても、私は行くのだ」という一念を持つと、奇跡が現れた。約20分後、発行されたビザのパスポートを返してくれた。

 師父は『2002年ワシントンDC法会での説法』の中で、次のように述べられている。「良く行っていれば自分の周りの環境を変えることができ、良く行っていなければ、自分の周りの環境を心に従って変化させることもできます」。

 師父は『米国西部国際法会での説法』の中で次のように述べられている。「もし困難の前で、念が非常に正しければ、邪悪の迫害や妨害を前にするとき、あなたが言った、正念の強い一言は邪悪を直ちに解体することができ、(拍手) 邪悪に利用された人がすぐに逃げてしまい、邪悪のあなたに対する迫害はすぐ消え、邪悪のあなたに対する妨害を即刻になくすことができます。正しい信念というこの一念だけですが、この正念を守りきることができる人は、最後まで歩むことができ、大法によって造られた偉大な神になるのです」。

 神としての一念であるか、それとも常人としての一念であるか、このような試練は常に存在している。我々の修煉の初期の頃、次元を高めていくのは比較的簡単だった。そのときは、我々の身に汚れたものがありすぎたから、大規模にそれを排除することができた。しかし、修煉が進むにつれ、次元を高めていくのは段々難しくなった。なぜならば、我々はそれら些細なかつ根強く心に残った執着心を取り除かなければならないからである。これは楽器の勉強と同じだ。最初の段階は比較的簡単な曲が弾けるようになり、この楽器で演奏できると言えるかもしれないが、しかし、本当に高めようと思えば、技術的に絶えず高めていかなければならないのである。

 多くのとき、執着心を発見するのはなかなか難しいし、時にはその執着心についてまるで気づかない。時には、執着心が現れても、その表れはとても複雑で、例えば、私は常に一番優秀なプランナーになりたいと思うとき、この執着心は実は、私の闘争心、嫉妬心と私心の現れである。このとき、私は闘争心や私心があると気づくかもしれないが、嫉妬心も存在しているとはなかなか気づかない。ある人から「誰々はこの分野において天才である」と聞くと、私の頭の中で先ず浮かぶのは、「私もこれを勉強しよう、私もきっとこの分野において立派になる」ということである。私は同修からの称賛を求めようとしている。これは名誉に対する執着の現れである。

 最後に、自分が自分の難をなかなか乗り越えられないときの体験を皆と交流したい。修煉の過程において、上手に自分の難を乗り越えられないことは沢山あった。このときにいつも怒り出し、或は自己を責める。極端なときは、長期に亘り自己を責め、後悔の思いの日々を過ごした。このような状態では、どんなこともうまくいかない。この原因は常人の情にある。私は子供の頃から、悲しい気持のふりをして、他人の注目や同情を得ようとした。知らないうちに、この気持ちを修煉の中へ持ち込んだ。もし、私が自分の難を乗り越えられないとき、悩みを同修に相談したら、彼らはきっと私を慰めてくれるだろうといつも思うが、実はその反対であって、同修に悩みを話したとき、彼らは常人のように表面的に私を慰めたり、或は、貴方はよくできたよとか言うのではなく、彼らは常に精進して法を勉強しよう、もっと上手にできる、もっと正念を強く持とうと励ましてくれるのだ。

 よく考えれば、これはもともと私がやるべきことである。自己を責める気持ちや後悔する気持ちは、正法修煉を精進して行く道の障害に他ならない。私からの救いを大いに期待している衆生がそこで待っている。

 師父は『2003年カナダバンクーバー法会での説法』の中で、次のように述べられている。「再び良く行なえば良いのです。それを重く見ないでください。考えの中でそれを重く見てしまえば、またもう一種の悔恨、心配などの圧力を形成してしまったら、あなたはまたこの執着の中に陥ってしまい、乗り越えられなくなります。大法弟子の修煉の全過程はつまり人間の執着心を取り除く過程です。どんなことに遭っても、それを認識し、直ちに改め、転んだらすぐ立ち直り、引き続き大法弟子として行なうべきことを行なえば良いのです」。

 最近、自分の難を乗り越えるとき、この法に対する新たな認識ができた。ある一つの些細なことで、同修の立場に立って考えていなかった。小さいことだが、自分の行為を大変後悔している。しかし、上述の師父の法に対する認識ができ、その教訓をしっかりと心の中に留め、今後よりよくやって行こうと思う。最後にこのことに邪魔されず、法に対する新たな認識ができ、同時に、今後よりよくやって行く自信ができた。

 最後に、師父の『洪吟』二・「正念正行」を持って、私の体験談を終わりにしたい。

 
大覚は苦を畏れず

 意思は金剛の鋳

 生死に執着無く

 坦蕩たり正法の路


 皆さんに感謝し、いつも慈悲にご教示していただいた師父に感謝します。法に対する理解の不足はどうぞご指摘ください。

 (2006年ワシントンDC法輪大法修練体験交流会体験談)

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/9/1/136843.html

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