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腕骨折、骨盤粉砕骨折が13日で全快

 文/東北法輪功学習者

 【明慧ネット2006年6月21日】本文は東北の片田舎な村の60歳の大法弟子の体験で、本人の口述を同修が整理したものである。

 2005年の正月7日、私は町の同修の手伝いをして蜂蜜を買いに行った。帰り道は滑り易く、雪も沢山積もっていた。高さ10cmの橋を渡る時、滑ってしまった。坂も小さく、何の危険性もないはずだったが、高い所から落ちたような感じがして、気を失ってしまった。

 気が付くと、自分は地面に座っていた。すぐ、「あれっ、私はどうして此処に座っているの? 私は大法弟子なのでこんな様子ではだめだ、早く起きないといけない」と、手で地面を押して起きようとした。その瞬間、私は左腕が完全に骨折しているのに気がついた。 手の甲が腕にくっ付いていたが皮膚は破れていなかった。

 しかし当時怖くはなかった。すぐ右手で左手を元に戻し、指も一本ずつまっすぐに伸ばした。骨折した手の甲と腕の外側の骨が高く突き出しているのが鮮明に見え、きりきりと痛み始めた。私はすぐ、「私は大法弟子なのだ、痛くない」と思うように努力した。

 そう思った瞬間奇跡が起こった。きりきりとした痛みがなくなり、しくしくと感じられるだけで、小さな法輪が突き出した骨の所をぐるぐる回転して修複するのが見えた。突き出した骨が段々平らになったら、法輪は又もう一カ所の突き出した部分に移動し、完全に修複した後、姿が消えた。

 私は拳を握って見た。指は動くが力を入れることは出来なかった。当時私は、「僕は修煉者だ、ここで座り続けるのはよくない、早く起きないといけない」と思った。

 私が起きようとした時、問題の重大さが分かった。足と脚が動かなくなり、力を入れることが出来ず、きりきりと痛みが襲って来た。手で触って見たら左の骨盤が粉砕して凹んでいた。激痛のなかで私はもう一度、「私は大法弟子だ、痛くない、大丈夫だ」と思った。その瞬間、奇跡はもう一度起きた。法輪が骨盤の所で回転し、修複し始めた。痛みはぐんと減り、骨盤が熱くなってきた。修複が終わった後、法輪も姿が消えた。当時私はもう一度「早く起きよう、通行人にこの様子を見られてはいけない」と思った。私は右手で地面を押しながら一気に立ち上がった。骨折した手の袖を引っ張って整え、右手で蜂蜜を持って家に帰った。

 帰宅後、連れ合いは私の腕が可笑しい、どうしたのと聞いた。私はちょっとぶつかっただけで、心配はないと言った。夕方私は普通通り、片手でご飯を炊き、床も拭いたが何も支障はなかった。 寝る前、腕が腫れていた。うっ血で皮膚の色が変わってはいたが、そんなに痛みもなく、骨盤もしくしくと感じられるだけだった。仕事に疲れた時、だるくて痛く感じられる程度で、寝る向きを変えるには影響がなかった。

 その後、連れ合いと子供たちに問い詰められて骨折した経過を言い出した。すると皆はびっくりして救急車を呼び、県の病院へ検査に行こうとした。私は「私は法輪大法の修煉者なので、大丈夫ですよ、心配は要りません」と言いながら腕を動かして見せた。それて皆はやっと安心した。最後、連れ合いは「そうか、あなたのことを信じる。本当に大丈夫なら自分も一緒に煉功する!」と言った。それから数日後、腕の腫れも消え、色も正常に戻り、骨折してから回復まで13日間かかった。13日後私は餅作りを開始した。

 今回、私は再び大法の不思議さを証明した。実は2年前も同じような経験があった。当時、庭の薪を片づける時、薪に躓いて倒れてしまい、片足のかかとが前向きになってしまった。当時私は「私は修煉者なので大丈夫」と言いながら痛みを堪えて脚のかかとを戻し、立ち上がった。現在もその時に足首が骨折したかどうかは分かっていない。気にせず骨折しているかどうかを確認しようともしなかった。数日間はびっこをひいて歩いたがすぐ直ってしまった。

 二回の同じような経験は、私だけではなく、家族と近隣の人にも大法の不思議さを証明する事が出来た。その後、連れ合いと近隣の人たちも一緒に大法を勉強し始めた。

 私が経験した二回の難により、慈悲な師父が私の為、無数の苦を嘗められ、私の人生で溜まった業を滅し、私の目を覚まさせ、「師父を信じて法を信じる強い信念があれば、如何なる難関も突破でき、師父は常に私たちを見守っておられる」という強い信念を持つようしてくださった。

 『転法輪』で師父は「皆さんに言っておきたいのですが、どんなに辛くても、ぜひ頑張って受講に来てください。この会場にいればすべての症状が消え、何の危険もありません」と言われました。

 このことについて、私はもっと深く悟ることが出来た。私たちの心が正しく、常に自分が修煉者であることを忘れず、如何なる関、難にあっても、法の中で自分を修め、自分を法のなかに置き、一思一念を法の中に溶け込ませれば、何の危険もありませんし、超えられない関もありません。別の空間で本当になさるのは師父であり、師父は師父と法に対する動揺しない我らの信念を求められているのです。

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/6/21/130973.html

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