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基点を正しく整え、衆生を救う

 文/大陸の大法弟子

 【明慧ネット2006年6月18日】昨日、偶然に中共の秘密強制収容所に関する小冊子を読み、胸がつかえ、ひどく残念に思い、悲しみ嘆いた。共産党は本当に極悪非道であり、この魔難の中の同修たちは言葉で表現出来ない罪悪にさらされ、自分の家族が遭難したように辛くなった。しかし、突然このような感覚は間違っている気がした。これは常人の感情ではないか? 我らは正法時期の大法弟子であり、神の道を歩む人が常人の目で問題を認識してはいけないと思った。

 自分の以前の行為と考え方を振り返ってみると、ほとんどが常人の目で認識していた。同修の遭遇を悲しく思うのが正しいと認識していたが、実はもっと高い次元から見ると、基点から間違っていた。立場を変えて神の目から見ると、本当に可哀想なのは誰だろうか、私たち大法弟子だろうか、当然そうではない。

 師父は『転法輪』で、「極楽世界の経典が下界のそれとまったく異なっており、ほとんど同じものとは言えず、文字だけではなく、指し示すところや意味まで違い、変化している、と言う人もいます」と言われている。天上と人間の理は逆であり、人間の立場から見えるのは、表面現象であり、本質は見えないものである。

 私はイエスについて考えた。イエスは自分が十字架に付けられることを事前に知り、死刑の前日、神様に祈ってこの決定を変更してくださるように願った。怖いからなのか? そうではない。イエスが絞られて死刑場に連れられる時、一部のユダヤ人女性が彼のため泣き出した。イエスは、「私のために泣かないでください、あなたたちの子孫のために泣いてください。子供がいない人は幸せです」と言った。神様と人間は物を見る角度が違って、イエスが神様に祈ったのは自分のためではない。ユダヤ人女性は人の角度からイエスの無辜の境遇を辛く思ったが、イエスはユダヤ民族がこの罪のため魔難を受け、2000年間の苦痛と懲罰を嘗めることを見出したのである。イエスは十字架に貼りつけにされて死んだがまた復活し、何の影響も受けないが、ユダヤ人の多事多難な贖罪の歴史は今でも継続している。

 今日は昔と更に異なって、現在は正法時期であり、大法弟子たちの次元は全て歴史時期の神とは比べものにならず、大法弟子を迫害するとはどれ程の罪になるだろう? 結果は想像も出来ないほど恐ろしいものである。また、真相を知らず、まったく無関心のまま世間にいる人の結果はどうだろう? 本当に可哀想なのは大法弟子ではなく、大法弟子はどのような苦難を与えられても迷いの人間世界の表現だけであり、師父を信じて疑わなければ、彼らを待っているのは天国の誉れである。本当に気の毒なのは、残酷な現実の前で未だ目が覚めていない済度できる世人である。我々に対する邪悪の迫害は数年も続いており、私たちが迫害を阻止させようとする理由は、自分たちのためではなく、自分たちが遭遇した苦痛と難を解決する目的ではなく、衆生が神に対して犯した罪を停止させ、衆生に未来を与えるためである。

 一部の同修は私を含め、真相資料を作る時に形式だけにこだわり、また一部の同修は、受難された同修に対する感情をもって救うことをしている。私は、私たちの基点が間違ったため、今回の迫害は人が人に対する迫害になったと認識している。もし私たちが神の観点から物事のもっと本質的な真相を見抜ければ、世人を救って済度する時に茫然としないはずである。また、今迫害されている同修たちに、基点を正しく整え、正しい念正しい行いをすれば、迫害の環境を変えることができ、これも衆生を救うことであると言いたい。どの神であっても師父よりはっきり物事を見抜く事ができず、師父の慈悲に及ぶことはできない。師父は私たちに、中国人の半分を救うことが出来たら私たちのために喜ぶと言われたが、師父の気持ちを本当に理解できる人は何人いるだろう。残り時間も少なくなり、私たちは未だたくさんのやるべき事があり、あるいは未だ立派に完成できていない。それゆえ、緩めず、もっと頑張らなければならない。

 個人のわずかな体験であり、不適切な部分については、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/9/10/137415.html

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