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学習者が迫害されていることと正念を発することについての感想


 文/大陸大法弟子

 【明慧ネット2006年9月17日】近頃、一部の同修が逮捕されて、迫害致死されたことは、他の学習者の間に大きな影響を与え、私の周りにいる一部の人は修煉の心が動揺しました。

 これに対して、ここで師父の説法を挙げると、「人は人として修煉していますが、神様として修煉しているわけではありません。人として修煉しているため、人には人心があります。」(《2004年アメリカ西部法会での説法》)。ですから、人心で言うとあることを避けようがないまま、旧勢力はこれに乗じ漏れを掴んで迫害を加えたりして試練という名で正当化しようとしました。だからといって、この変異した正当化を気にしなということではいけません。

 学習者の間にこういう人がいます。他の学習者の迫害を受けたことを聞いたらすぐに、「その学習者には、必ず問題があったのだ、何らかの執着心があったのだ、よく修煉をしていなかったのだろう」というふうに思い続けました。それによって、第一念はすでに学習者が悪いと思い込んだから、旧勢力による干渉と迫害で引き起こしたことと思わなかったです。因みに、その後も正念で学習者を助けようとしましたが、結果としてこの助力があまり効かなかったです。何故ならば、最初から学習者に問題や執着などがあると否定的に思っており、つまり旧勢力による干渉及び迫害という事態と見なしていないので、すでに正念の効果をなくしました。

 実は、学習者はどの原因で迫害されているのであろうか、わたしたちは一方的に責めるのではなく、直ちに正念で迫害自体を取り除くべきです。こうして、旧勢力と黒手爛鬼を消滅して学習者同士の正念を加持します。

 ある学習者が何かが起きると言って予測したら、その意念の中で本当に迫害事件が起こりました。しかし、その学習者は逆に興奮を覚えながら自らの正確な予測に自信が湧いたというのです。「ほら、起きたでしょう!」と、これは非常に危険な状態であり、もう知らず知らずのうちに、これは求めたも同然です。一つの潜在意識から変なメッセージやら功能やら浮かんてきました。しかし、当人はこの不明なメッセージやら功能をよくわきまえることができないため、こういう意念の中でもともと迫害に遭う運命ではない学習者が迫害に遭うことになり、それを現実に形成しました。もし最初から学習者の正念が強くなれば、その時の不明なメッセージやら功能を否定したり阻んだりしてこれを掃い除くことができるはずです。つまり、どの原因でも大法弟子が迫害されることは起きてはならないことであり、旧勢力の手口いわゆるその変化した試練を受けてはいけないことです。ですから、もう感覚だけというものに頼ってはいけないことであり、自分には功能があると執着してはいけないのだということに注意しなければなりません。実は、よく考えると、これを本当に功能と言えるのでしょうか?早くきっちりと目覚めなければなりません。

 以上はわたしの体験談ですが、慈悲にご指摘ください。

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/9/17/137928.html