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河北高陽刑務所で楊会林さんは生埋めにされ妻は死亡

 【明慧ネット2006年9月25日】法輪功に対する中国共産党の迫害が1999年7月20日に始まって以来、河北深州市の法輪功学習者の楊会林さんの家族は何度も現地の610と公安局から不法逮捕、拘束、恐喝、拷問などの迫害を受けて、最後には一家がバラバラになり、肉親を失った。楊会林さんは高陽労働教養所で全身をきつく縛りつけられて7、8本の電気棒で衝撃を与えられ、しかも睡眠薬を入れた食事を食べさせられて、なんと生き埋めにされるなどの残虐な迫害に遭った。刑務所から抜け出した彼は長期にわたって路上に迷う生活を余儀なくされた。妻の楊小温さんは迫害の中で冤罪が晴れないままこの世を去った。 

 楊会林さんと妻の楊小温さんは、99年12月18日に陳情のために上京したが、帰る途中で深州市公安局政保科の尚運航と賈双万に不法に逮捕されて公安局まで拉致された。そこで4人の悪らつな警官が楊会林さんに高圧電気棒で衝撃を与え、顔を打ち、また楊小温さんにも電気棒を当てた。その後、楊小温さんは1カ月あまり拘禁され、楊会林さんは2000年2、3月に数百元の罰金を取られてやっと釈放された。

 2000年8月、楊会林さんはまた兵曹郷派出所の悪らつな警官に不法逮捕された。政法委書記の宋慶荘らは楊さんにめったうちを加え、真善忍に対する信念を放棄するよう強いた。楊会林さんが邪悪に妥協しなかったため、彼らは仕方なく楊会林さんを家に帰した。 

 2000年12月18日、深州市610の季傑和と宋慶荘は8、9人を連れてきて楊小温さんをむりやり引きずって行った。夕方になって賈双万はまた息子の楊徳強さんをつれて行った。楊徳強さんは手錠をかけられてパトカーに乗せられた。この場面を隣近所の人々が見た。途中で賈双万は楊徳強さんに平手打ちを食らわせ、市公安局についてからは賈双万と張元廂が楊徳強さんに自白を強要し拷問を加えた。彼らは革の靴で手錠を踏んで長い時間、楊徳強さんに平手打ちを食らわせた。夜7時、 賈双万は強制的に楊徳強さんに拇印を押させて秘密裏に留置場に送り込んだ。楊徳強さんは邪悪に妥協しなかったため、張元廂は革の靴で激しく彼のこめかみを踏みつけて、他の何人かの悪らつな警官も彼を殴ったり蹴ったりした。何度も気を失ったが目を覚まさせてはまた滅多打ちした。留置場の悪らつな警官はなんと銃まで発砲した。 

 その後、賈双万と張元廂は楊徳強さんを小屋まで引きずって行って、彼を地面に打ち伏せて、靴とズボンを脱がせてからベルトを使って交替で滅多打ちした。そして彼を留置場の鉄の籠に入れた。そこで楊徳強さんはほとんど毎日受刑者からの暴力を受けた。また6、7回にわたって尋問を受けた。そのほとんどは自白を強要する拷問であった。 

 2001年1月11日、楊徳強さんと母親の楊小温さんは3年の不法判決を言い渡された。石家庄労働教養所で楊徳強さんは電気衝撃、滅多打ち、洗脳灌食などの迫害を受けつくした。楊徳強さんは1年半が経ってやっと釈放されたが、精神的に残虐な迫害を受けて体が極度に衰弱し、失明に近い状態に陥った。排泄などが自制できずしかも血便が出た。深州市の賈双万と張元廂が楊徳強さんに加えた滅多打ちにより内臓器官の障害を引き起こし、今でもでん部に傷の跡痕が残っている。 
 楊小温さんは2000年12月18日午前11時過ぎに不法に逮捕されて兵曹郷派出所に入れられた。その後、留置場に移送されて迫害を受け続けたが、その20日後にはなんと3年の不法判決を言い渡されて強制的に石家庄労働教養所に送り込まれた。楊小温さんは邪悪らに妥協することなく、悪らつな警官から強制的な灌食などの迫害に遭った。強制的な灌食により鼻から出血を起こすなど体は日に日に衰弱した。悪らつな警官らは責任を負うことを恐れて深州市610に連絡してそこへ移送させるようにした。このように2001年4月兵曹郷は楊小温さんを興政府に入れた。兵曹郷政府は楊小温さんから2000元をゆすりとってからやっと彼女を釈放した。

 2001年8月1日の夜明けごろ、楊小温さんがまだ寝ている時、深州市政府法律委書記の尹玉珍は警官に指図して部屋に乱入し強制的に610まで連れていった。楊小温さんは昼夜10日間の断食を行い、骨と皮ばかりに痩せこけた。この期間中、楊会林さんは妻の楊小温さんに面会に行った。悪らつな警官らは責任を恐れて家族に電話して迎えに来るようにと通知を出した。家族が彼女を迎えに来たとき、警官らはびくびくして逃げたり、隠れたりして顔を出す人は一人もいなかった。 

 楊小温さんは家に戻ってしばらくしてまだ身体が回復していないのに、また楊会林さんが邪悪に逮捕されて洗脳班に入れられた。兵曹郷原政法委書記の宋慶村は気が狂ったかのように彼を滅多打ちし、さらに何人かが取り囲んで彼の首を押し付けるなどし、楊会林さんは長い間食事をすることができなかった。それでも2カ月後にやっと家に帰した。 

 2004年2月13日、悪らつな警官の賈双万と辛集市の警官8、9人が馬屯村治安係員を率いて、真相説明をテレビチャンネル切り替えで放送した法輪功学習者を捜すとの理由をつけて、楊会林さんの家に乱入し強制的に家宅捜査を行った。そして楊会林さんを公安局に拉致し、迫害を加えた。その数日後には留置場に移送された。そしてまた高陽労働教養所に入れられた。高陽労働教養所で楊会林さんは全身をきつく縛りつけられて7、8本の電気棒で衝撃を受け、しかも睡眠薬を入れた食事を食べさせられた。しかし、睡眠薬は効き目を果たすことができなかった。悪らつな警官2人が前に行って覗いたところ楊会林さんの目は開いたままだった。2人は驚いて外に行って小さい声で、「どうしてまだ目が開いているんだろうか? これじゃ生き埋めは無理だろう?」とびくびくした。これらの話は楊会林さんにははっきりと聞こえた。2004年9月5日夜7時ごろ、楊会林さんは李先生の慈悲深い加護の下で正念をもって昼夜3日をかけて田畑から這うようにして進んで悪らつな警官の厳しい追跡を避けて、高陽労働教養所から抜け出すことに成功した。現在、楊会林さんは依然として路上に迷う生活を余儀なくされている。 

 2005年旧暦の3月6日、地元の悪人の賈志托と紀迎らは朝早く楊会林さんの家に来て楊小温さんを恐喝した。そしてでっち上げにより楊小温から自宅の南家屋敷を騙し取った。絶えることのない迫害を受け続けた楊小温さんは心身とも深刻なダメージを受け、ある日の午前、突然倒れて半身不随になり、病院で検査を受けた結果、脳出血だと診断された。彼女は三カ月にわたる苦痛に苦しめられて2005年7月2日冤罪が晴れないままこの世を去った。楊小温さんは息を引き取るときでさえ夫の楊会林さんに会うことができなかった。 

 現在、楊会林さんは放浪の生活をして家に戻ることができない。彼の長男の楊徳強さんは畑の耕作をやっており、想像を超える苦難を受けている。次男はまだ大学生だが生活はとても困難である。授業料は全部身内と隣近所の人々の援助でまかなっているが、現在は中退の危機に瀕しているという。楊会林さんは家があっても帰ることができず、平穏で幸せだった家族が迫害によって一家がバラバラになり肉親を失うという結果に見舞われている。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/9/25/138603.html