■日本明慧 http://jp.minghui.org/2006/10/02/mh033753.html 



同修の不足と過ちおよび口を修めることについて

 文/大陸の大法弟子

 【明慧ネット2006年6月22日】地元の一人の同修は、心性の問題で過ちを犯したため、ある同修は修煉者の心で対応しているが、ある同修は常人の心で対応し、同修の不足や過ちを常人の是非とし,場所をわきまえずに攻撃し、無意識のうちに煽り立てることになった。

 言うならば私達は何を言って何をやるにしても先ず法を考え、他人を考え、私達の行いは法を守る事に有利か、衆生を救い済度することに有利か、全体を形成するのに有利かを考えるべきです。私にはある同修がすでに魔難の中におり、邪魔されている中で、先ず考えるのは同修を助けることであり、決して同修を排斥するのではなく、或いは同修の身の上によくない物質を加えたり結論を下したり、反対の作用をもたらすのではありません。

 よって、同修の不足や過ちについては、交流しないのではなく、それに触れないわけでもない。その逆に、はっきりとした理性および慈悲をもって対処しているのか、それとも人心を起こしてはばかることなく指弾するのか、それはどのような心構えで対処するかによる。

 この事で私は以前の出来事を思い出した

 2004年冬、ある女性の同修が当地の邪悪に逮捕され、後に釈放された。だが、ある同修が公安内部から情報を得て、この同修は全てを吐き出し、スパイであり、彼と接触しないよう皆に告げた。一瞬にして人心が生じ、噂が広まった。最後にこの同修はやむなく子供と外地へ行った。

 ここで私が言いたいのは、一部の出来事を同修に告知するのは間違いではないが、問題はどのような心か、人心が入り混じっていないか、全体を考えているかという事である。

 この事件を聞いたが、私は動揺しなかった。同修かは決してスパイではない、ただその時に全てを否定出来なかったに過ぎない。有意無意にして邪悪に協力しただけだ。もしこの同修がスパイなら、影響を及ぼす人は多いはずだ。しかし、彼女と接触した人は皆問題なかった。これらの出来事は私達が反省すべきで、心性と法理上での不足を探し出すべきである。

 私達の地元には確かに個別の学習者に問題が存在しており、邪な悟りをする者がおり、いろいろと言う者がおり、色の関門を突破出来ていない者もおり、大法弟子の金銭を淫らに使う者などなど。不足と過ちのある同修に対し、私が思うには以下の幾つかの方面から見るべきである。

 一つ目は、彼らを排斥したりあるいは反対側の立場に追い出したりせず、彼らに関心を持ち接触すべきである。もし説得を聞かず、まだ法を破壊し、全体の法の実証を妨げるなら、無視してはならず、厳粛に対応し、法を守るべきである。同時に、私達は一つの問題に注意すべきだ。それはただ陰で指摘や議論し、口や心を修める事を忘れ、邪魔と損失を重くした事になる。もし私達が心から同修のために思うなら、最も良い事は誠意を持ち、寛容、慈悲の心を持って同修と交流し、或いは発正念で助ける事だ。私が思うには同修の間違いは、単なる人心と執着心に左右され、他の空間の邪悪に隙をつかれ、中には旧勢力の按配の道を歩んだものもある。もし同修が戻ってくれば、全体への障害が少なくなり、法への損失も少なくなる。師父は一人として弟子を残さず、師父が済度しているのはこの世の全ての衆生なのである。

 当然、誰の話も聞かずに完全に他の空間の邪悪にコントロールされ、師父を否定するようになってしまった人は別の問題である。それを助長させる環境を与えてはならない。

 師父は新しい経文「至難の関から抜け出す」の中で「師父として、私は皆さんが修煉の中でした間違いにこだわったことはなく、皆さんが行なった良いことと成果だけを見ています。」「私と大法弟子は、常人のように修煉の中で間違ったことをした学習者に対処しないのです。」と言いました。私達は皆師父の洪大で寛容な無量の慈悲を体感しており、ならば大法弟子として、私たちも洪大な慈悲を修めなければならず、漏れのない正念で、同修或いは衆生に対処するべきである。

 他に、口を修める方面に関して、師父は『転法輪』の中ではっきりと私たちに告げておられる。「われわれが口を修めるようにと説くのは、次のような場合です。常人の中での捨て難い名利や、社会における修煉者の実際の仕事と関係ないことについて話したり、あるいは同門弟子の間で無駄話をしたりすること、あるいは執着心に唆(そそのか)されて自分を顕示すること、あるいは聞き伝えに過ぎないなんらかの噂を伝え広めること、あるいは社会のその他の話題に興奮を覚えたり、喜んで話したがったりすること、などです。これらはみな常人の執着心であるとわたしは思うのです。こうしたことに関して、われわれは口を修めるべきだとわたしは思います。これがわれわれの言う『口を修める』ことです。」私の考えは口を修める方面でよく出来るかどうか、これも心性と境地の真の現れである。この方面において私達は必ず自己を良く修め、自分に対し、同修と大法に対し責任を持つべきである。

 個人の体験であり、不適切なところは慈悲なるご指摘をお願いします。

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/6/22/131025.html

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