法の暗記から得た体験
文/ニューヨークの大法弟子
【明慧ネット2006年7月24日】李先生、こんにちは。同修の皆さん、こんにちは。私たちのために法会を開催し、これほど貴重な交流の機会を与えてくださった同修の皆さんに心より感謝を申し上げます。今回は皆さんと法を暗記することを通じて体験したことについて交流したいと思います。
法の暗記についてですが、以前、表面上では二回暗記したことがあります。しかし、まるで特別な感受はありませんでした。ある日同修の一人から、たとえ法を暗記したとしても、あなたの心理状態が良くなければ役に立たない、むしろ通読したほうが良いと言われました。当時、その話を聞いてある程度同感しました。明慧ネットに掲載されている法を暗記する体験文章を読んでも、あまり感動がなく、一人ひとりの修煉状態は違うとばかり思っていました。しかし、法の暗記に対する自分自身の心理状態に問題があり、それによって心が静けさを保つことができないということに気付きました。
約1カ月前、明慧ネットに掲載されている多くの法の暗記についての交流文章を読みました。しかし当時、私は先生の広州説法を勉強していたのですが、その中のある章で師父は、当時長春のたくさんの弟子が法を暗記していて、法を勉強するとき、あなたがこの段落を暗記し、私がこの段落を暗記するという形で行っていると説いておられました。第九章の中で述べられているように、これは私たちに対する普遍的な要求だろうと思いました。それでまた法を暗記したいという心が動き出し、暗記を始めました。
今回は、暗記を始めて私は自分自身の暗記が速いとか遅いとかを気にせず、焦らずにやっていこうと決めました。私は落ちついて少しずつ進めて、できる限り雑念をなくし、暗記した部分の内容も理解できるように着実に行いました。このように毎日法の暗記を続けて、時には一日2、3ページ、時には1、2ページ暗記しました。今回の法の暗記は、今までと大きく異なりました。真に法を暗記しているうちに、益々自分の執着がはっきりと見えるようになり、知らず知らずのうちに自分に対して厳しく要求するようになりました。次第に正念も強くなりました。しかも、法の暗記は本当に心から暗記すべきであり、以前のように常人の記憶力で暗記してはいけないと悟りました。
ある日、心を込めて暗記している時、「たくさん得れば得るほど、その分だけ人を傷つけることになり、得るべきではないものまで得てしまいます。彼は名利に執着するために徳を失うのです」という段落まで読んだ時、頭の中で一瞬、私の会社の社長のことが浮かびました。そしてまた続けて暗記しましたが、なぜ突然自分の会社の社長のことを思い出したのか、彼のような人間は師父が述べられているような人間だから、たくさん利益を得ることによって他の人をたくさん傷つけているのではないか? なぜ私はこのように考えているのだろうかと、考えをもっと深いところに伸ばして行きました。彼はたくさん儲かったから得るべきではないものを得たと考えているのか? この気持ちは何なのか? これこそ嫉妬心ではないか? 自分に結び付けて考えてみると、最近仕事上で名利に対する執着があり、時には無意識にこの人はいくら儲かって、あの人はいくら儲かったなどとよく考えていました。結局これらは私自身の執着の表れであり、元を探ってみれば他でもなく名利に対する執着が作用していたのです。
だから心のバランスが崩れ、闘争心が表れたのです。最初、今の仕事に就いた時、正しくない考えをもっていて、たとえそれがただの一瞬としての一念であったとしても、完全に良くない考えでした。旧勢力が私の中の正しくない考えの隙に乗じて、その正しくない念のままに向かうようにコントロールしていたと気付きました。それによって知らず知らずのうちに自分自身をとても難しい立場に追い込みました。当時はこれらの一連の良くない考えが、どこから来たのか分かりませんでしたが、その後それらに気づいてからは、まるで背中に背負っていた重い荷物を降ろしたかのように、全身が軽やかになりました。ここ1、2年の間、私は法の勉強を通じて悟ったものがあまり多くありませんでした。自分があまり精進していないことも分かりました。しかし、今回の法を暗記する中で、法の内容は私にとても大きな作用がありました。
最近、私は自分にある根本的な執着をより深く認識するようになりました。法を得る前に私は良い暮らしをしていました。ですから生活を楽しむという傾向がかなりありました。しかし、人生に対しては確かに疑問を持っていました。特に死という言葉を考えただけで恐怖を感じました。だから法を得た当時、一方では理屈に合うから法を学び、もう一方では直接佛を修め、人間の体を永遠に保つことができ、六道輪廻から抜け出て天上に登り幸せな暮らしができ、死から逃げることができると思いました。実際のところ幸福な生活を追及していたのです。この根本的な執着を切り捨てないと、それは常人社会で安逸な生活を求める表れとして出現します。幸せを求める心を切り捨てないと、それは常に飛び出て来て、あなたが本当の修煉者であるかどうかが試されます。
少し前にある同修と交流した時、彼女の悩みに触れたことを覚えています。当時彼女と交流する中で、私は彼女が幸せな生活を追求していることが見えました。彼女は常人の中のものを求めていたのです。しかし彼女は多くの大法のことをやっていて、大法のために多く貢献しているように見えました。突然私は天上の神々が私たちを見ているような感じがしました。特に私たちのこのような情況を見て、きっと頭を傾けて、私たちに本当に真の修煉者なのかと聞いているようでした。私は私たち一人ひとりが真に自分自身に存在する根本的な執着を探し、それを切り捨てなければいけないと認識しました。自分にある根本的な執着を探すと同時に、懸命にそれを切り捨てる努力をしなければなりません。
常人社会の中で、修煉者にとって生命の本当の意義は紛れもなく宇宙の特性である真善忍に同化することであると悟りました。以前、私は他の人が良い家に住み、良い暮らしをし、旅行に出かけるなどを見ると羨ましく思い、憧れました。しかし今はこれらの執着がまったくないとは言い切れませんが、確かに少なくなりました。
最後に全体の強調についての問題について交流したいと思います。『2005年サンフランシスコでの説法』の中に、次のような言葉が説かれています。
弟子:私たちアメリカ西部の学習者たちが作ったメディアはどのようにして法を実証し、更に大きな作用を果たすべきなのでしょうか?
師:とても漠然とした話ですね。大法弟子としてやるべきことをやれば良いと思います。かかわっている全ての学習者が積極的に自分のやるべきことをやり、同時に必ずよく協力し合うことによってそれがより大きな作用を発揮し、より大きな効果を生み出すようにすべきです。衆生を救い済度する中で本当に全面的に作用を果たすことができればそれこそ成功なのです。
実のところ、先生は類似した法理について何度にもわたって説法の中で述べられていました。つまり、全体の協調の作用についてです。以前私はこれらの方面についての認識が限られていました。しかし、昨年末から今年の初頭にかけて、明慧ネットの主催で開かれた第2回大陸大法弟子交流会の中のたくさんの交流文章を全部読んで強い衝撃を受けました。ある文章は本当に素晴らしかったのです。今までは交流文章を読んである程度は役に立ちました。しかし今回の文章を読みながら、私は自分にある一部の問題がすでに変えられたような感じがし、修煉の中でまた一歩大きく前進しました。まず全体を考慮して物事を考える大陸の学習者たちの状態が最も印象深かったのです。
自分の心が果たして全体の中にいるのでしょうか? 自分がやっていることにしか没頭せず、他のことには無関心でいるのではないのでしょうか? いつも自分のことばかり考えて忙しいからといって他のことには参加しないのではないでしょうか? 確かに自分が参加できないことであっても、まったく考えてみようともせず、さらに強い正念を持って支持しようと思っていないのでないでしょうか? あるところに隙があるとき、黙ってそれを補うことをあなたは果たしてするのでしょうか?
私は新年パーティーとテレビ局の仕事に参加することが多いのですが、この二つの仕事には参加する人がたくさんいました。参与する人が多いと問題も多く、全体の協調も厳しく求められています。この方面において私自身はあまりよくできませんでした。時間の関係もあり、ここでは多く語ることができませんが、ある提案を皆さんにしたいと思います。協調に参与する同修の皆さん、真に法を暗記すべきです。実際のところ今益々多くの学習者が異なる方面において協調の役割を担っていますので、一人ひとりが法を暗記すべきです。法の上で真に向上を図って、はじめて私たちは自分自身が何をやっているのかが分かるようになり、どのようにしてそれをやり遂げるべきなのかが分かるようになります。
法の暗記を通じて心性の向上はあったものの、他の方面から言えば、自分自身の限界も感じました。いままで私はずっと自分の修煉の道のりで勇猛邁進していないと思っていました。時には向上が大きく、時には向上が少なく、時には停滞して足踏み状態でした。これらは法を暗記する過程の中でも現れました。やはり、勇猛邁進の状態ではありませんでした。今この交流文章をそろそろ書き終えるころ、一部の学習者たちは生体臓器摘出について交流していました。これらの発生は私たち一人ひとりの大法修煉者にも責任があり、旧勢力の按排でもあります。しかし、私たちは全体でそれらの按排を確固として否定しなければなりません。私たち自身が三つのことをしっかり行わず、常人の観念、成り行きに任せて麻痺状態に陥るなどのことも直接関係しているのです。
ある同修は交流の中で「師父は私たちに法を良く勉強しなさい、法を良く勉強しなさい、法を良く勉強しなさい、法を良く勉強しなさいと再三教えられました。しかし私たちはずっと法の勉強を重視せず、重視せず、重視せず、重視しなかったのです」と反省しました。私は自分自身を含めて周辺の同修からも同様の現象を見ることができました。今、個人と全体について言えば、これは本当に覚悟すべきことであり、一人ひとりが自分自身に消極的で成り行きにまかせる傾向がないか、しっかりと見極めて、それを取り除き、師父が私たち大法弟子に求めておられる通りに行うべきです。最後になればなるほど精進すべきです。
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/7/24/133810.html)
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2006/8/14/76840.html)
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