劉述春さんが山東昌楽労働教養所によって迫害致死された更に多くの詳細 文/山東大法弟子
【明慧ネット2006年9月4日】2001年1月3日大法弟子・劉述春さんが山東省昌邑市の悪辣な警官に非法にも拉致され昌楽労働教養所に送られた時,身体は既に虚弱していた。話によれば彼は昌楽にて非法監禁された際、既に数日断食していた。しかし悪辣な警官は劉述春さんの危篤状態に構わず、やはり彼を昌楽労働教養所まで拉致してきた。
劉述春さんは非法労働教養を受けた後、邪悪の指示に従わず、“転向”を拒絶した。昌楽労働教養所第二中隊の悪辣な警官はやはり他の大法弟子を迫害する手段を用いて、劉述春さんの衣服を剥ぎ取り冷水を掛けた。
当時はちょうど師走の10日で、一年中で最も寒い天候で、冷たい水道水を身体に掛けられ、開いている窓から北西の風に吹かれると、正に一万もの刃物に刺されているような感じで、一時間も経つと身体が震えて玉のように縮こまり話す事も出来ず、五感がねじ曲がって、内臓も苦痛で耐えられませんでした。この迫害の過程から歩んで来た大法弟子は皆この苦痛が忘れられません。だが大法弟子を迫害する悪人達は、防寒衣、防寒靴に手袋をして、手に水ホースを持って叫び、怒鳴りながら大法弟子を迫害していた。
当時劉述春さんは濡れたまま洗面所の対面の宿舍のコンクリートの地面に置かれ,裸のままで、縮こまって震えが止まらず、ごろつき等が“早く言え、まだ修練するのか?”叫びながら、殴る蹴るの暴行をし、殴り蹴るその音が響き、大法弟子の苦痛の声が昌楽労働教養所の西の階に鳴り響き、ごろつき等が息切れし、汗まみれになる昼近く迄続けられ。この時、劉述春さんは、コンクリートの上で縮こまって,目を閉じ,身体を振るわし、ただ息が残っているだけでした。
昼の休憩時間が過ぎ、午後になると、ごろつき等の劉述春さんへの迫害は更に残酷でした。ごろつき等は午前中一杯かけても“転向”の目的を達せず、劉述春さんは唇を固く閉じ、一語とも言いませんでした。悪辣な警官とごろつき等は怒り、劉述春さんに対し先ずは冷水を掛け,そして殴る蹴る、手法は変わらず残酷で、悪人らが力を加えるに連れ,劉述春さんの苦痛の声も低く虚弱に振るえ、一連の殴る蹴るが過ぎると、再び一連の殴る蹴るがやって来る、この時劉述春さんの「あゃ」の声が聞こえなくなり、ただごろつき等の「早く言え,まだ修練するのか?」の叫び声だけがしました。
劉述春さんはごろつき等の殴る蹴るの中、段々と呼吸が停止した。悪人らはただ悪行をし、ずっと田偉祥が異常に気づき、当番の警察を呼んで来るまで、劉述春さんの生命がどうなるかについては考えてもいませんでした。
劉述春さんは僅か六時間の内に、昌楽労働教養所の悪辣な警官に指図されたごろつき等によって殴り殺された。劉述春さんが亡くなると、あっという間に労働教養所の車が西の階の下に来て、第二中隊の数名のごろつきらが、劉述春さんの遺体を毛布で包み車に乗せると、労働教養所を去った。劉述春さんの妻も大法修煉者です、非法にも王村労働教養所にて監禁されている。劉述春さんの遺体を運んだ布団は2・3日置き,劉述春さんの衣服等個人用品と一緒に処分した。当番日誌の劉述春さんに関する記録は当日午後消されました。
殺人の情報を封鎖する為,昌楽労働教養所の悪辣な警官は各科、各大隊の大竜警察を第二中隊へ派遣しその他の大法弟子を監視し、手紙を書かさず、電話させず、個人行動をさせず、二人での会話をさせず、トイレも二人に“挟まれ”付いて来る。第二中隊の悪辣な警官は、三回に渡り突然集合させ労働教養所の職員に捜査させた。悪辣な警官韓会月が警官を連れ直々捜査し、ズボンの裾もひっくり返して見たし、穿かない靴も出して検査した。
悪辣な警官がどんなに殺人の情報を封鎖しても,大法弟子・劉述春さんが殴り殺された情報は,其の日の内に社会に公表された。
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/9/4/137070.html)
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