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黙々と修煉する同修 はかり知れない正念


 文/大陸の大法弟子

 【明慧ネット2006年10月17日】最近、私は他の地域の同修と会ってから、私の同修を見る基準が変わってしまった。

 この同修は、資料製作所の者でもなく協調人でもない。ただ、非常に辺鄙な地区に住む一学習者である。しかし、彼女は何度も馬三家労働教養所に行き、不法に拘禁されている同修の釈放を求めると同時に、たえず迫害情報をインターネットに暴いている。警官は、この同修を見るたびに恐れおののく。彼女は、私のいる地域に迫害されている同修の家族と共に、国保大隊の所に行き、迫害により何度も名前を暴かれている警官を前にして、正念をもってその警官を詰問した。他の同修が迫害されている同修の面倒を見る最も辛い時でも、彼女は何人分もの仕事を一人でし続けていた。

 この同修の言い出す言葉は皆、非常に素朴で謙虚であるが、そのすべては法に基づいている。いかなることでも、まず自分の内に向けて探すようにし、常に他人のために考えている。彼女が去ってから、彼女がやったすべてのことは、私達のこの協調人にできないことばかりであった。彼女の無私と恐れない正念を見て、私達は恥ずかしく思った。

 私達は、ある協調人を見るとき、その協調人の責任は重大で、周囲に与える影響が強く、能力も強いからと言って、その協調人がよく修めて、常に正しいことをしていると考えてはならない。その反面、黙々と精進している普通の同修を重視しなかったり、その意見を聞かなかったりしている。その協調人は、このような能力を持っているから協調人として振る舞い、このように修煉して初めて円満成就するかもしれない。しかし、その協調人のやっていることが大きいからと言って、よく修めているとは限らないし、それらのあまり突出した能力を持っていない普通の同修こそ最も偉大かもしれない。

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2006/10/17/140157.html