選んだこの一念
文/アメリカの大法弟子
(明慧日本)師父は私たちを選んで、地獄から引っ張りあげてくださいました。また私たちに修煉の道も按排してくださいました。しかし、私たちが師父の按排してくださった道を歩むかどうか、よく歩むかどうか、最後まで歩むかどうか、どのように師父が按排された修煉の道を歩くのか、自分で選ばなければなりません。
どうしたら、私が歩いている道は師父が按排された道だとわかるのでしょうか? どうしたら、私が歩いている道は正しい選択だとわかるのでしょうか? 私はどうすればよいか分からない時、心を静めて法を勉強します。すると、師父の按排された道が見えてきます。自分が法を得て、修煉を始めて以来ぶつかった問題と選択を振り返ってみると、どれも師父が『轉法輪』の中で説かれていないことはありません。ただ自分の悟性が低すぎて、多くは認識できなかっただけです。
常人も人生は一連の選択で構成されると言っています。私が師父の按排された修煉の道のりを、正しく一歩一歩歩むか、それとも失敗に連なる道を歩むか、自分で選ばなければなりません。もし修煉者に堅い意志と強い正念がなければ、正しい選択をすることができません。難に遭遇し、トラブルに遭った時、一念の選択によってその結果がきっと異なってきます。選択時の一念はしばしばとても大事な影響をもたらします。「物事の善し悪しは人間の一念によるものであり、その一念の違いによって異なる結果がもたされることがある、とわれわれは言います」(『轉法輪』)しかしこの堅い正念は法をたくさん勉強し、法をよく勉強することによってもたらされるものであり、さらに師父が私たちに要求された道がわかるようになります。
一念で「病」だと思うか、「病」でないと思うかが決まります。私は、「病」には自分の過去の業力の要素もありますが、「修煉者には病気がない」ので、たとえ業力があるとしても絶対に大法弟子が法を実証する事を邪魔する程度には至らないと悟りました。だから「病」というのも旧勢力がそれを利用して修煉者の正念正行を邪魔するものにすぎません。同じく、一念で、精進するか、安逸を求め自分を緩めるかが決まり、一念で消極的に迫害を受け入れるか、それとも旧勢力の一切の按排を否定するかが決まります。この一念の選択により、師父の按排された修煉の道を良く歩むか歩まないか、法に同化するかしないかが選択されます。
私はこの一念の差は人と神の区別であり、残るか残らないかの区別であると悟りました。旧勢力は一念で選んだ方法が法を正す事を邪魔したので、消滅されます。私たちが真相をはっきり伝える中で、中国人は一念で邪党、団、隊を脱退するかしないかを選びますが、実はそれは将来邪党と共に滅びるか滅びないかの選択です。しかも、私たちが真相を伝える時、相手のために発した一念も相手に影響を与えることができ、直接相手の将来に影響を与えます。大法弟子の善なる念は師父を助けて、もっと多くの世の人々を済度できるのです。
私の一念は常に他人のことを考え、衆生のために責任を担うことであり、私利私欲を抱えて自分の修煉だけを考えてはいけないということです。自分の修煉だけを考えることは、師父の法を正す大法弟子に対する要求ではなく、自分の修煉だけを考えて、「法を正す時期の大法弟子」の使命と責任を忘れることも、一種の「私」であると悟りました。師父は大法弟子に三つの事をやり遂げるように要求されました。この三つのことは法を正すことに必要なものです。私は個人の修煉だけを重視することは、ただ自分だけを重視することだと思っています。生命は自分だけを思う不純な心で、「私」のために落ちてきたのに、また「私」の中に陥って上に向かって修煉して、天国にある自分の家に帰ることを忘れるのでしょうか? 「自分の向上だけを考えではならず、自分を大法の一粒子だと思って、大法が私たちに与えた任務をやり遂げなければならない」と、私は悟りました。
個人の次元に限界があるので、正しくない所についてはご叱正をお願いします。
2006年10月19日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/9/18/138028.html)
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