テレビの魔をはっきり見分け 放任しないように
文/河南省大法弟子
(明慧日本)最近、私は急にテレビにはまり始め、時には夜12時の発正念を終わってから、またテレビを見るようになった。これは執着だとわかっているのに、テレビの誘惑に負けて見てしまう。結局見たあとよく眠れず、翌朝の発正念に、どうしても目が覚めず、頭がはっきりしない状態になる。
このような情況を3回ぐらい繰り返し、前2回の時すでにこれが執着と漏れだと認識して、これを書き出して暴露し、取り除こうと思った。しかし、なかなか書けなかった。『明慧週刊(242回)』の「放任は執着心の発酵剤」という文に震撼し、やっとテレビのコンセントを抜く決意をした。すぐにこの教訓と体得を書き出して、この執着を取り除き、根元を堀り起こし、法の上で精進しつつ、怠けずに修煉しなければならない。
なぜ「テレビは魔」なのか?
一、 テレビを見るのは常人のレジャーで、娯楽、享楽ではないか。テレビを通じて人は感情と欲望を満たせるのではないか。ゆえにテレビ番組の内容、画面、音楽などにはまってしまう。今常人でさえ分かっているのだが、テレビは大量に人の思想、精神と時間を奪って、落ち着かなくなり、浅薄にさせる作用があると認識した。テレビがとても好きで、その内容に夢中になるのは、自分を見失うことではないか、自分の主意識と正念を緩めてしてしまうのではないか、世の中のいわゆる享楽を求める執着ではないか。
二、 今の中国では、テレビは最も重要なメディアとして、すでに中国共産悪党の党文化の毒素をまいており、強制的に民衆を洗脳する重要なツールに変身した。大陸のテレビ番組は全部党文化、作り話、悪党を宣伝すると同時に、金銭を崇拝し、賭け事、殺害、色情など人類の道徳に背く醜いものばかりで、使うのはすべて偽り、ペテン、感情を扇動するなどの洗脳手段であり、人は知らず知らずのうちに邪党の毒素を注ぎ込まれている。その目的は人に刺激を追求させ、心理的に、無頓着で、節度なく享楽、理知を失って軽薄にならせる。——それでは、よくテレビを見ることは、絶えず汚染されることではないか。自分の頭の中によくないものを詰め込むのではないか。悪党の存在を認めてその妨害を黙認するのではないか。どうして正念を持って正しく行なう大法弟子がこれを認めるのだろうか。
自分に対する放任、真の自分ではない執着に対する放任は、悪魔を養うことであり、それらに隙に乗じられ、執着を捕まえ拡大し、邪魔され麻痺してしまい、そして執着におぼれて自力で抜け出せず、甚だしきに至っては自分も気がつかない。
実は、師父はすでに説いておられる。「いまの環境では、テレビのスイッチを入れれば、何でも出てきますので、人は欲望をそそられやすいのです」。「映画やテレビにベッド・シーンがなければ見る人がいないかのようであり、何よりも観客動員数や視聴率がまず問われているのです」。(『転法輪』)
師父は、テレビについて、修煉へのマイナスの影響をすでに説いておられる。しかし私たちは長期に常人の中で生活しているため、だんだんテレビを生活の一部と見なしており、現代人は今更テレビを離れたら何をしたらいいかもわからず、テレビを見ることは欠かせない生活の方式と見なしている。これは修煉者にとって常人の中で後天的に形成した執着ではないか。
常人として、テレビを見る過程で悪党に毒され滑り落ちて、思想観念と道徳基準が変異した。修煉者としては、テレビにはまるのは放任であり、自分の思想の中の常人の観念に従って、悪の存在を認めることであり、悪党邪霊の妨害と汚染を受け入れ、精進の意志を緩め、三つの事を行なう正念を壊されることである。それは魔ではないか、危害は大きいのだ!
私たちがはっきり認識すべきなのは、テレビをみるのは決して正常な生活様式ではなく、今の人類の道徳の崩壊の大きな原因はテレビの爆発的発達と誘導に関係があり、広く伝播することにより、すべての醜いものを拡大してしまい、人の刺激を追求する享楽にふける心理に迎合している。
神の道に向かっている大法弟子として、私達に求められるのは常人の享楽と安逸ではない。私達は大法の中で絶えず自分をきれいに洗い煉っている。テレビを見ることで円満成就できるだろうか。時間を無駄にして、命が荒れ果て、学法を緩め、長期に邪魔され、百害ばかりで、益は一つもない!
私は一部の同修がテレビを見るのが好きなのを知っている。甚だしきに至っては一晩中見ていて、常人とチャンネルを奪い合い、三つの事を怠けて、したくない、する勇気もないのだ。同修たちよ、目を覚まそう! これは邪悪が按排した道を歩いていることなので、いまの状態が続けば、悪に引っ張りこまれてしまい、大法を少しずつ忘れて、遠く離れ、またとない機縁を失ってしまうのだ。安逸心、享楽心は精進しない弟子を落とすことになる。
テレビにはまる同修よ、早く目を覚まし、時間を大事にして三つの事をしっかりと行ない、常人生活のすべての執着を取り除いて、真に執着のない漏れのない法を正す中から修煉によって神になってほしい!
認識に限りがあるので、同修の間でお互いに交流し合い、お互いに参考にすることを望んでいます。
2006年10月25日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/9/30/138981.html)
|