二言三言:「やったことがある」と「やり遂げた」について
(明慧ネット)交流する時、一部の同修は自分の悟性が良く、修煉においてたくさんの大きな事について悟ることができたうえ、全部やったことがあると誇らしく思っているようだ。しかし、考えるべきことは、これらの大きな事をする時、自分は法を正す時期の大法弟子の心構えをもって、師父の教え通り正念をもって正しく行い、大法を実証し、邪悪を取り除き、衆生を救い済度することがが実質的にできたかどうかを考えてみるべきではないだろうか。それとも、「人心と仕事に対する執着心」をもって師父と修煉をはかり、現状に満足しているのだろうか。
確かに「やったことがある」と言うが、私達は本当に「やり遂げた」のだろうか、結果はどうだろうか?
重箱の隅をつくように聞こえるかもしれないが、大法を修煉する者として、主観的に正しく自分自身を要求する意識を持ち、責任感のある心構えと考え方を持ち、大法の修煉に対して謙虚な態度を持つべきである。
邪悪の大法弟子に対する過酷な迫害の中で、邪悪はあなたの修煉における精進の度合いによってではなく、邪悪はあなたの大法の基準に達しているかどうかを見ているのだ。基準に達することができなければ、邪悪は妨害し、迫害するようになる。このような教訓はすでにたくさんあった。
今のところ、大法弟子たちは皆、「邪悪な党文化」を解体している。思えば、「やったことがある」ことで満足してしまう考えの中にも、党文化が見え隠れしているのではないか。
師父は何度も、説法の中で「真に修める」ことについて言及されてきた。私達も真に自分達を見つめ直すべきである。
2006年10月29日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/10/27/140955.html)
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