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環境が良くなるほど自らを修めるべし


 文/広西の大法弟子

(明慧日本)大法弟子は皆「良し悪しは一念による」という師父の言葉を知っていると思います。修煉者としては常に法理に基づいて物事を判断することも分かるはずです。しかし、人としての根深い観念、特に邪党から受けた毒害及び影響によって私達の物事の見方ややり方は、時々知らず知らずのうちに常人の観念を帯びてしまいました。その上、平常、法の勉強や正念を発することを重要視していないことにより、こうした常人の観念に妨害されがちです。もし、しっかりとこれらの観念を識別して取り除かなければ、同修の間に広まっていくと、私達の場の清らかさを損なう恐れがあると思います。従って、その地域で法を実証して衆生を救うことにも損失をもたらすのです。

 例えば、最近同修と話していた際、明慧ネットに載せられた文章が話題になり、「最近書かれた文章は良かった」と一人の同修が言いました。もう一人の同修は、これは文化のある人達が書いたものだとうっかり口を滑らせました。私は、このように常人の観念で考えて、常人の観念に動かされたため、物事の表面しか見なかったのだと考えます。

 確かに、多くの同修は書いた文章を通して、法理を明晰に把握し、師を信じ法を信じて正しい念正しい行いで他の学習者に深刻な啓発を与え、悟らせることで全体の精進を促しています。さすがに素晴しい文章だと思います。これこそ、法を正すことが今日まで進行し、学習者達は理性的になってますます成長してきたためです。これらの文章は、本当に全体の向上と全体の円容を促すことに積極的な役割を果たしています。文章を書いた同修も異なる次元から様々な経験や文化の背景を持ち、大法と修煉に対する実践と体験もさまざまです。彼らが自分の修煉の体験や法理への理解、既存の問題に対する意見などを書き表すことにより、私達は切磋琢磨してそれと対照しながら向上することができます。

 実は、「文化のある人は良い文章を書く」という見方には、ある執着心が潜んでいます。それは、他人との差を直視せずに、この差さえ認めないのです。その上「修煉の道はそれぞれだ」と言い、師父の言葉を借りてこの執着心を隠そうとしています。こうした見方は認識上の不足のように見えますが、実際に修煉者にはかなり危険です。

 師父は「正法は最後になればなるほど厳かで厳しく、厳粛になる」とおっしゃっています。国内外の大法弟子が一緒に真相を伝えたことにより、世の人々も次第に目覚め、環境がだんだん良くなってきた今日では、こうした険しくて厳しい試練は過去のような外部の邪悪な勢力による迫害だけでなく、多くは私達自身の執着心による妨害に過ぎないと思います。執着心を取り除き、常人の殻を脱ぐことは、極めて苦痛な過程に違いありません。邪悪の迫害は形があるものや感じられるものなら、気付きやすいのです。しかし、環境がよくなったら安逸心や顕示心、闘争心、歓喜心などの執着心が精進に影響を与えることに気付きにくいのです。

 気付いた時、または同修に指摘された時は、もう厳重すぎて手遅れになってしまうのです。邪悪の迫害が最も厳重だった時は、生死を放下し、絶えず精進していたのに、環境がよくなったら、なぜ執着心が膨らんできて安逸な生活に溺れてしまうのですか? なぜ、今までは「三つの事」をきちんとできたのに、今は意余って力足らずと感じ、しっかりと行えなくなったのですか? 以前口を修めることに注意を払っていた同修は、今は時々他の同修に注意されています。真相を伝えることを重要視している同修は、もっと法を学ぶようにと忠告されるといつも「時間が足りない」と言います。

 修煉は流れに逆らって舟を進めるように、進まなければ押し流されてしまいます。最後になるほど精進すべきです。同修と接する時、「よく法を学ぶ」ことを常に耳にしています。当然ながら、このような忠告や激励は必要なものです。しかし、如何に「よく法を学ぶ」かという問題において、明晰な認識と重視が充分ではないと思います。この問題について、師父は『転法輪』では明確に答えておられます。「高次元の法が分からないために修煉ができないことと、内へ向かって修煉せず、心性を修煉しないので、功が伸びないのです。この二つが原因です」。法はすでに師父に教わったので、重要なのは法と対照して自分の一言一行を正していくことです。これは修めることを意味します。ある同修は二日間で二回『転法輪』を読むことができるが、問題にぶつかると、いつも他人を照らして自らを照らさないたいまつのように、法理に基づいて問題を扱っていないと話しました。こうした学び方には、法を学ぶというよりただ読んでおり、法に同化するというより責任を終えているように感じます。

 「環境がよくなればなるほど修煉が難しくなる。環境がよくなるほど自らを修めなければならない」と私達は常に自らを戒めるべきだと思います。佛の世界では、すべては美しく、苦がないのでもう修煉ができません。師父は私達の生々世世に積み重ねた業を私達の代わりに背負ってくださったので、私達にはいわゆる「苦」というのは執着心を取り除く時に常人の心が重すぎることに違いないのです。こうした万古に遭いがたい機縁を結んで今修めないといつまで待つのでしょうか。環境がよくなって自分に対する要求を緩める同修もいます。自らを修めることを怠けて無頓着になり、危険が自分に近づいているのに気付かないのです。師父は『ロサセンゼルス市の説法』において「最後になって、ますますしっかり行ない、くれぐれも怠らず、緩めず、無頓着にならないように望んでいます」とおっしゃいました。これは精進している学習者への激励の言葉でもあり、執着心が重い学習者には戒めの言葉でもあります。

 もし他の同修が最後になるほど精進しているのに気付かずに、自分の状態がよいと思い込むなら、実際には私達はすでに落後しています。あたかもマラソンのように、最後に他の選手は皆突進し始め、あなたを追い越したのに、あなたは依然として同じスピードを保つなら、一番後ろに取り残されてしまうかもしれません。

 レースに参加した以上、こうして遠く走ってきて、こうして終点に近づいているのに、なぜ全力を尽くして前進し続けないのでしょうか?

 個人の考えで、適切でない処があれば同修の慈悲なるご叱正をお願いします。

 2006年10月31日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/6/14/130372.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2006/6/27/74857.html