個人の認識に執着しない
(明慧日本)修煉者が常人の理に執着することは、すなわち自分を常人と同じ立場に立たせるのに等しく、どうしてもそこから抜け出せなくなると、常人になってしまう。神になりたければ、超常的な理をもって自分を律し、法に基づいて自分を修め、人から離れればすなわち神になるのだ。
修煉者はいかなる次元まで達したにせよ、ただその次元の法の具体的な現象しか認識できない。そのため、この認識はその次元においては正しいものであるが、それに執着すれば、さらなる向上の妨害になる。今日になると、大法弟子の修めたそれぞれの次元は非常に高く、各自も異なる次元の理を悟っている。しかし、それぞれの認識に執着すれば、自分自身の向上を妨害するだけでなく、全体での協調もできなくなる。知っているように、旧勢力が淘汰される最も根本的な原因とは、神の目から見た理にこだわり、正法の中で正しく行えなかったからである。
決して忘れてはならないのは、大法にしたがって行うことだけが正しく、しかも、それは永遠にして変わらないものであり、絶対に正しいものである。心を静めて法を学ぶことは、向上する根本である。
師父も「自己に非(あらざ)るを割捨す 都(すべて)是迷中の癡」(『洪吟(二)』)とおっしゃっていた。ある次元に執着して、満足することは、つまり人心の歓喜心、顕示心である。本当の自分の考えではない。常に精進し、自分に厳しくし、旧勢力が存在する口実を与えず、刻一刻と大法の教えに基づいて自分を修めて、初めて法を正す時期の大法弟子の名にふさわしくなるのである。
個人の悟りであり、適切でないところは慈悲なるご指摘をお願いします。
2006年11月3日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/11/3/141610.html)
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