日本明慧
■印刷版   

「学習者」と「弟子」について


 文/回昇

(明慧日本)近頃、ある同修の所に行って、入門したばかりの新しい同修を助けていた。その同修と共に交流する時に、学法して何年も経っている同修は話す時に、常に「老師(先生)はこのようにおっしゃっていた」と言うのを耳にした。それを聞いて私は少し変だと思った。これまでに、大法を修煉して十数年経つ同修がこのように聞いても何も感じなかったが、今は非常に強く感じている。

 明慧ネットでいつも「師」を敬い、「法」を敬うと書かれた文章を見る。それでは、この「師」はいったい「老師(先生の意味)」なのか「師父」なのか? 私個人の理解では、「老師(先生)」と対応しているのは「学習者」であって、「師父」と対応しているのは「弟子」である。それでは、これらの差異は何であろうか? 『転法輪』の第三講「わたしは学習者をすべて弟子とする」とおっしゃっている。師父はまた、「皆さんはわたしがどんなことをしているのか、お分かりでしょうか? わたしは、独学で真に修煉する者をも含めて、すべての学習者を弟子として導いています。高い次元の功を伝えるには、このように皆さんを導かなければなりません。さもないと、無責任で、でたらめなことをすることになります。」ともおっしゃっている。説法の中で、師父ははっきりとおっしゃっているように、「学習者」と「弟子」の間には根本的な差異がある。

 常人社会では、もしある家庭の息子が彼女を家に連れて来たときに、息子の彼女があなたに対して、「おじさん、おばさん」と呼ぶと、それは非常に礼儀正しく聞こえるが、息子の彼女が息子と結婚してからもなお、このように呼んでいると、非常に無礼だと感じるはずである。常人ですら、関係が深まってから、「お父さん、お母さん」と呼ぶようにしている。大法弟子は常人にも及ばないというのだろうか。「老師(先生)」と呼ぶことから、「師父」に変えられないのだろうか。

 以上、個人の悟りにすぎず、正しくない所はぜひご指摘をお願いします。

 2006年11月4日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/10/26/140945.html