日本明慧
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二言三言:修めることと求めること

(明慧日本)最近,急に自分の思想の深いところに,よくない心が隠されていることを発見した。大法を利用し、大法を自分の目的を達成するために利用することである。大法に求めることと大法を修めることはまったく別なものである。比べてみると、求めることは私的のためで、個人の私的な目的のためであり、修めることは他のためで、もっと師を助け法を正し、衆生を済度することである。

 過去の数年間、私の思念の一つ一つに求める心があり、求める心をもって本を読み、法を学び、煉功し、修煉のことをやってきた、心が純粋ではなかった。もっと高い悟りを求め、もっと高い次元を求め、自分自身の変化を求め、これを求め、あれを求め、常に法からなにかを求めてきた。実際にこのような求める心が壁のように私を隔てていて、私が法を悟り、大法に同化するのを邪魔していた。遠回りして、ときどき過激に法を理解し、自分の向上を遅らせた。

 ここまで書いてやっとわかった、私は表面的に大法を修めているが、実際は大法に求めている、したがって向上が遅い。これがわかって、もう一度本を読み、法を学ぶと以前とまったく違っていた。

 2006年11月12日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2006/11/12/142268.html