日本明慧
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永遠の幸福な思い出

——北京国際法会で師父と会う


 文/大陸の大法弟子

(明慧日本)北京の国際法会が終わる1996年11月2日はうららかな日和だった。夕方、夕日はとりわけ光り輝き、陽光は一輪一輪の法輪を大地に放った。法会に出席した世界各地の同修たちは、皆、夕食の前の時間を利用して、自由に各グループに分かれて引き続き交流していた。私も何人かの同修と交流していた。

 6時ぐらいに、私達のそばで海外の同修の煉功の動作を直していた大法研究会のスタッフが呼ばれて出て行った。しばらくして、師父がみんなに会いに来られるという大変うれしいニュースを伝えてきた。

 その時、みんなは地壇公園のホテルの前ホールと後ホールで食事をしていた。前ホールは当日の法会の会場だ。師父が来られると聞くと、私は箸を置いて前ホールに走っていった。その時ほかには何も見えなくなったが、両目は師父だけを見つめていた。ある回想の文章には、みんながすべて期せずして一致して立ち上がって熱烈に拍手したと書いていた。それは間違いなく事実だが、しかし私はその時、「みんなが期せずして一致して立ち上がる」シーンを実際には見ていなかった。

 師父がみんなに座って食事をするように勧められても、みんなは座らない。ふと見ると、師父は両腕を開けて、大人が子供の頭を押すような動作をして、親しみをもって「みんなは先に食事をしてください!ご飯を食べ終わって、私はみんなと話します」と言われて後ホールに行かれた。私はカメラを持ちながら、師父を追って、後ホールの自分の席に戻った。師父は慈悲深くて優しくてみんなを見ながら、やはりみんなに先に座って食事をするように勧められた。私がそばに立っているのを見て、師父は何気なく私を引き寄せて、そして慈悲深く優しく私を見つめられた。その時、私は自分の心身がすべて師父の掌の中で溶けていくと感じて、師父を見ても何も思い出せず、口も開けられず、ただ微笑んでいただけだった。あのような幸せな感覚はこれまでになかった。

 師父が後ホールを離れられたあと、私は立ち止まって、またカメラを持つ同修と一緒に師父を探すと、師父は前ホールと後ホールとの間の西壁に立って、みんなが食事をするのを待っておられるのを発見した。そばにいる研究会のスタッフは私達に食事をするように勧めたが、私達は師父の回りへ集まらず、はるかに離れて立って、後ホールの扉の外から師父を見て、機会をみて何枚かの師父の写真をとるつもりだった。結局、師父はまた行ってしまわれた。事後にやっと知ったのだが、師父はアメリカから北京に来られて、飛行機がついてから、すぐに弟子に会い、ご飯を食べる時間さえもなかった。師父は外で壁の下に立って、私達がご飯を食べ終わるまで待って、終わったら説法されるつもりだった。私達がご飯を食べないことを見て、また庭の外に行って、車に座ってみんなの食事が済むのを待たれた。今思い出しても、本当に感謝してもしきれず、感激の涙があふれて、恥ずかしくてならない!しかしあの時の自分の様子やあのような性格で、あのような態度しかできなかった。

 後になって思い出すと、実は師父がそのようにされたのは、私達に「事をする時、先ず他の人を考える」風格を残すだけではなくて、同時に私の「進歩のないやり方」の後にある悪魔性を暴露して、私自身に悟らせ、それを取り除かせるためだった。これはまた私にとって永遠に忘れられず、深く心に刻まれている。

 ご飯を食べ終わって、みんなはすぐに食堂を法会の会場に変えた。研究会の責任者は前の席を海外の同修に譲って、あっという間にみんなは着席した。みんなが座ると、師父は会場に入られ、またみんな期せずして起立し、熱烈な拍手が起った。師父は拍手を止めて、説法を始められた。後の席の弟子がはっきり見えるように、師父はスタッフに椅子をテーブルの上に置かせて、椅子の上に座ってみんなに説かれた。

 師父の説法の途中、研究会のスタッフはみんなに、師父はまだ食事をされていないと2回説明して、師父に説法を終えて食事をしに行かれるよう説得した。師父は押しとめて説法を続けられ、後では言う機会がないかもしれないからと言われた。その時、私は多く聞きたいと思い、一方でまた師父には食事をしていただきたいとも思ったが、師父の説法を聞きたい願望はもっと大きく、心の中ではスタッフが余計なことを言うことが嫌だった。

 師父は法を説き終えた後に、外へ行きながら、取り囲んできた弟子達と握手をして別れを告げられた。私はそばでちょっと待って、心の中で、先に前の同修と師父に握手してもらい、それから機会を逃がすことなく、そばから師父と握手しようと考えていた。

 家に帰る道中、何人かの同修はバスの中でいっしょに師父に会った情景を思い出して、完全にこの上ない幸せに浸った。数日間、私の頭のすべては空っぽで、とてもすばらしいと感じていた。

 またたく間に10年たった。修煉と法を実証する道に、たたきつけられては、また、よろよろと歩いて今日までついてきたが、一歩ごとに、すべて師父の加護のもとで歩いてきた。困難と危険に出会う時、自分が師父に会ったことを思い出すと、特に師父の掌で溶ける情景を感じて、心の底から一筋の熱い流れと無窮の力が湧き上がる。この一幕を、かつて何度か書きたいと思ったことがあったが、各種の執着に障害されてずっと書けなかった。今、私があのような無限な幸福を感じるのは、私に精進を促して、悟らせるだけではなくて、同時に私のこのような幸福をみんなと分かち合うことだと悟った。実は、私達大法弟子はすべて、ずっと師父の掌の中にいる。

 2006年11月17日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/11/4/141712.html