日本明慧
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自我を放下し、共に手をつないで共に衆生を救い済度する(四)


 文/吉林大法弟子  昕清

(明慧日本)

 *法を良く勉強し、自分を修めることはすべての保障である

 1999年に迫害が始まる前、私は毎日集団で法の勉強をしました。しかし、その時は、修煉は実質上絶えず執着を取り除くことであると認識できませんでした。『精進要旨』の「修煉とは何か」の中で師父は次のように説かれました。「ただ煉功するだけで法を学ばない者にいたっては、決して法輪大法の弟子ではない。法を学び心を修め、圓満成就の手段である煉功を加えて、確実に本質から自分を改め、それにより心性が高まり、次元が向上していることこそ、真の修煉なのである」。当時、法に対して感性的な認識が多く、地道に修煉をしていませんでした。ですから邪悪から迫害を受けた時、多くの人は執着によって邪悪に隙を乗じられ、一時、間違った方向へ進み、長い時間が経ってやっと目覚めました。しかし、私たちの師父はそれでも私を見捨てることなく、同修たちの激励と交流を按排してくださいました。私が法の中で修煉者の正念を取り戻した時、同修たちは私のことを信じてくれました。彼らは法を実証する全体の中に入るように私を引っ張ってくれました。しかし、何カ月も経たないうちに、毎日たくさんの仕事に追われるようになった上、情の要因もあり、再び邪悪に迫害の口実を作ってしまいました。 

 留置場の中で、私は初めて真剣に自分のすべての修煉の道を振り返ってみました。はっきり言いますと心を静めて法の勉強をせず、自分の心性を修め、本質から自分を変えることをしませんでした。「修煉の中で、皆さんは自らの真に着実なる向上によって、内面に巨大にして本質的な変化を生じさせているのではなく、わたしの力に頼り、外在する強大な要素を頼りにしているが、これでは永遠にあなたの人間としての本質を佛性に変化させることはできないのだ」。(『精進要旨』「警告の言葉」) 徐々に法理に対する認識が少しずつ明確になり、旧勢力が私に加えた迫害を認めてはならないと認識することができるようになりました。

 数日後、私は留置場から出て自由になりました。当時私はこんな私のために支払われた師父のとてつもなく大きな対価に対して、真に感じ取ることができました。私にもう一度衆生を救い済度する機会を与えてくださった師父に感謝いたします。その時から、私は絶えず法をもって修煉するようにと自分自身に注意を呼びかけました。法を良く勉強していなければ問題にぶつかった時、どうして法を師とすることができるのでしょうか? 「大法の学習者としては、頭に入れられたものがすべて大法であれば、この人はまさに本当の修煉者である。したがって、法を学ぶことについて、はっきりとした認識を持たなければならない、本を多く読み、本を多く読むことは真に向上するための鍵なのだ」。(『精進要旨』「法の中に溶け込む」)

 しかし、当時私は依然としてある種の私心というものがありました。潜在意識の中でよく法を勉強し、自分をよく修めさえすれば邪悪は私を迫害できないと考えていました。実はまだ完全に旧勢力を否定していませんでした。その後、私はどんなに忙しくてもできるだけ法の勉強を優先して、それから大法のことをやりました。任せられる仕事の量が次第に増加し、毎日法の勉強は確保したものの、量と質はとても保証できるものではありませんでした。ですから同修たちとの協調の中で絶えずトラブルが発生し、深刻な損失をもたらしました。ここ何年の間私が知っている同修あるいは一緒に協調して大法のことをやっていた同修たちもそれぞれ異なる程度の迫害を受けました。これらは私に度重なる圧力を感じさせました。詳細に考えてみると、私と協調しながら一緒にやっていた同修からもその受けた迫害の原因を探してみると、ほかでもなく忙しいからといって心を静めて法の勉強をせず、心性を修めず、長期にわたって根本的な執着を取り除いていなかったのです。つまり、徐々に自分に対する修煉をしなかったということです。「人間は何かの事を行なうことを修煉とみなし、宗教の形式を守ることを修煉とみなしています。実は神はまったくこれらのことを重く見ておらず、人心の向上のみを重く見ています。それこそが本当の向上です。その環境は修煉者、佛と神を信じる人が一緒に向上できるために提供された場所であり、互いに学びあうことができるためです。」(「米国首都法会での説法」) 

 今年、前の協調人はやめて他の地域に行き、私と協調して一緒に技術をやっていた同修も迫害を受けて死に至りました。これらの血の教訓から、私は修煉とは何なのかについて内心から理解を深めるようになり、修煉は厳粛なことであることをさらに認識することができました。修煉者として私はここ数年の間、死と別れというものをあまりにもたくさん経験してきました。毎日聞くことも見ることも迫害と迫害を受けて死に至ったことばかりでした。1999年の私たち学法チーム6人のうち4人が迫害を受けて死亡しました。一人は邪悪の迫害により放浪生活を余儀なくされました。今は私一人しか残っていません。もちろん現在は私に協力してくれる同修がたくさんいますが、当時のそのような圧力下で私は師父のお言葉だけをしっかり覚えました。「どのようにしてしっかりとこの道を歩み、最後まで歩むのか、このことこそ、最も素晴らしいのです。この道を歩む過程に困難があり、各種の試練、思いもよらない魔難と様々な執着及び情による妨害があるからです。この妨害は家庭、社会、親族友人、ひいては修煉者同士から来ており、さらに人類社会の情勢による妨害もあります。この全ての全てはあなたを常人に引っ張り戻すことができます。この全てを突破することができれば、あなたは神に向かっていくことができます。ですから、一人の修煉者にとって、自らを堅め、如何なることがあっても動揺しないという確固たる正念があれば、これこそ素晴らしいのです。金剛のように、磐石のごとく確固としていれば、誰もあなたを揺るがすことができません。邪悪はあなたを見て恐れてしまいます。もし困難の前で、念が非常に正しければ、邪悪の迫害や妨害を前にするとき、あなたが言った、正念の強い一言は邪悪を直ちに解体することができ、邪悪に利用された人がすぐに逃げてしまい、邪悪のあなたに対する迫害はすぐ消え、邪悪のあなたに対する妨害を即刻になくすことができます。正しい信念というこの一念だけですが、この正念を守りきることができる人は、最後まで歩むことができ、大法によって造られた偉大な神になるのです」(『米国西部国際法会での説法』)まさしく師父のお教えは絶えず私の正念を強化し、苦境の中でもくじけることなく立ち上がるようにしてくださいました。私は、私が邪悪らを倒すべきだと思っていました。

 同修の死は、私に血の教訓を残しました。当時私は、私たちを取り囲んだ状況がおかしいと感じていました。しかし、ただ簡単に場所を変えればよいと思うだけで私たち自身に漏れがあるとは認識もしませんでした。法の勉強を通じて絶えず内に向かって探し、適切に正しくないところを改善すべきだったのです。なぜ、私は理性的に問題を考えることができなかったのでしょう? ほかでもなく、他の同修たちと同じく大法の仕事をやることばかりに気を取られていたからです。実は法を勉強し心を修めることこそが修煉の根本なのです。もし、わたしたちがこれを忘れてしまうのであれば、これこそが最大の漏れではないでしょうか? 毎日食べることも寝ることもせずに熱心に法を実証する活動ばかりやっていても、これが修煉であるとは言えません。とても強い主意識を持って法の勉強と心の修煉を結びつけたと言えるのでしょうか? その時から私たちは、一緒に集まって如何に仕事をよくやるかについての議論は少なくし、多くの時間を法の勉強、発正念に集中しました。交流はトラブルに遭った時どのようにして自分を修め、自我と各種の観念を放下して同修とうまく協調し、如何に自分のやり方に執着せず黙々と足りないところを補うかについて主に交流しました。今に至って私たちの環境はやっと徐々に本当に修煉の環境に変わり始めました。 

 現在、私は法の勉強に対する重要性をさらに認識することができました。なぜなら、私たちの正念は法の中から来るもので、すべての法を実証することは法に対して明確であって初めて進展があるのです。「注意しなさい、わたしは皆さんに人為的に何かをするようにと言っているわけではなく、皆さんに法理を理解させているだけであり、この面での認識をはっきりさせなければならないのだ」(『精進要旨』「道法」) 私は常に同修と自分の少しばかりの体験を交流したりしていますが、法の勉強をたくさんしたからといって、法を実証することに影響をもたらすことはありません。なぜなら、あなたの状態はいつも法の中におり、言うことにしても、していることにしてもすべてが法の中にあるからです。だから、倍以上の効果を得ることができます。以前私は同修と協調する時毎日『転法輪』を一章だけ勉強して仕事をしました。多くの場合頭の中に法がありませんでした。しかもトラブルに遭遇しても法をもって量ろうとしませんでした。今私はとても幸運に思っています。もし師父のご加護がなかったならば大法のことをやるという口実を作って一日中そればかり考えていた私はどうなっていたでしょうか。実は師父は『2006年カナダ説法』の中で、「本を読む時間の長さも含めて、軽視してはなりません。むしろ、もっと重要なのです。なぜなら、これはすなわち、皆さんの道であり、皆さんが歩むべき道だからです」と、説かれました。 

 一時私は修煉をとてもつらく感じたときがありました。それはほかでもなく、法理に対して明晰な認識がなかったから最もつらかったのです。当時はいつも外在の力を借りて問題を解決しようとしていました。たとえば同修との交流もその現れですが、しかし今この交流文章を書く過程の中で心を静めて法を勉強することの重要性が益々明確になってきました。「法はすべての執着、すべての邪悪、すべての虚言を破ることができ、法は正念を固めることができるのである」。(『精進要旨(二)』「妨害を排除せよ」)私が急いで何を解決しようとしているのか、師父がご存知ないはずがあるのでしょうか? 私が法を勉強しさえすれば、法に同化され、まったく自我を考えていなければ法は必ず私を諭してくれます。この瞬間、私は法の中に溶け込んでいる自分をとても幸せに思いうのです。

 (続く)

 (第三期大陸大法弟子修煉体験書面交流大会交流原稿)

 2006年12月15日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/10/25/140722.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2006/11/18/80043.html