字の修正について 文/遼寧大法弟子清文
(明慧日本)『転法輪』における字の修正は何回も行いました。三、四回目の修正の時、師父が「今後、もう修正はしません(原語ではない)」と仰いました。学習者もわたしも今回で最後だろうと心の中に思いました。しかし、また修正のお知らせがきました。それに対して一部の学習者が騒ぎ始めて納得できないようでした。字の修正について人に聞かれると、「わたし自身には、それは党文化の文字と伝統文化の文字との内包が違っていますので、修正する必要はあると考えています。」と言いました。また、他の学習者はこれについてあまり気にしていないようで、実は私もその中の一人でした。
昨日、『明慧週刊』第247号に掲載している『正念で字を修正することについて』を読んで思い付きました。文中の、「字の修正の過程は実質的に師父の正法に必要なことであり・・・、修整された文字は師父が未来への選択である・・・」というところを読むと、修正ということは自分の理解しているものとそれに対して文章を発表した一部の学習者の理解しているものに限られると分かりました。これで、ミラレパの修煉の物語を思い出しました。彼の師父は幾度も彼に重い石を背負わせたり山を上させたりして家を立たせました。疲れ果てた彼のために、師父の奥様まで情けをかけてこのようなことをやめるようにと彼の師父を説得をしてみました。とはいえ、彼は師父の言うことにきっちりと従いました。それは、すべて彼の師父が彼に与える一種の修煉形式であります。
したがって、わたしたちの偉大なる師父はわたしたちにこうして何回も字を修正することを命じられましたが、これと同じ意味ではないかと思います。同じ字をこうだああだと修正させたりしたのも一つの修煉形式ではないでしょうか?その目的は、わたしたちの意志を鍛え、わたしたちの心性を向上させるのではありませんか!そのミラレパと比べてみたら、わたしたちはごく容易なことを行っているのではありませんか?というと、わたしたちはどうして修正を積極的にやらないのですか?これを悟ったら、まだ何回もの修正を命じられても、わたしたちは喜んでやります。自分のこのような理解を学習者同士と交流すると、他の学習者も同感を持ってくれて修正を急いだようです。
このようなわたしの理解は、修正に対して様々な考え方を持っている学習者に早く参考してもらいたいと思います。それも、修煉の一部分だからだと思います。
これが現在の私の次元における一つの悟りです、もし不適当なところがありましたら慈悲的にご指摘ください。
2006年12月23日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/12/12/144484.html)
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