日本明慧
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二人の同修 二枚の鏡


 文/暁悟

(明慧日本)同修の書いた交流文を読んで、私は自分の修煉を反省し始めた。私の執着はこんなにたくさんの残っているのかと驚いてしまった。

 これまでに、私はよく接していた、二人の同修AさんとBさんを見てきた。Aさんはせっかちで、言葉も攻撃的である。そこで、私には二枚の鏡が浮かび上がってきた。鏡の中で、Aさんの執着は私を鏡の中にひきつけ、さらにしっかり見ると、Bさんが他人の執着を探したがる執着の中に、私の影が潜んでいるのが分かった。

 そこで、私は切実に、もっと深く執着の根ざしている根本的な部分を掘り出さなければ、修煉において前進できず、永遠に入り口でさ迷ってしまうことになると感じた。

 今思えば、今日起きたことはちょうど私の執着を反映しているのではないか。今朝、私は夫に光熱費の支払いに行かせようとした。しかし、夫は会社に行くと行って、支払いに行くことを拒んだ。仕方なく、私が行くことにした。しかし、私が帰って来ると、夫は午前中ずっと家でテレビを見ていたことに気づいた。

 私は冷静でいられなくなった。私は、夫のたくさんの問題点を探し始めた。そして、夜になって同修の修煉体験談を読み、自分の執着と比較して、内に向かって探してみると、先ほど言及したように、二枚の鏡が浮かび上がった。そこで、私は、これはちょうど私の修煉のために師父が按排してくださった修煉の環境ではないか、ということに気づいた。このような環境がなければ、どうやって執着を取り除けようか。心性をどうやって向上させようか。師父の按排に感謝する気持ちになった。

 私は今日になって初めて、修煉の時間は何と短いのだろうと思うようになった。私は未だにこれほど多くの執着を抱いて放下しようとしない。修煉しようとして長年経ったが、未だにどの心も完全に放下できていない。さまざまな程度の執着心が私を縛っている。私は、自分自身に、真・善・忍を修煉して長年経ったが、あなたは師父の前で十分な自信をもって、「私はいかなる状況においても真・善・忍をやり遂げたと言えるのだろうか」と自分に言い聞かせた。私は、恥ずかしながらできていないことが分かっていた。そこで私は、今後必ず自分自身を、真に修める学習者とみなし、常に心性を守って内に向けて探し、他人に対して寛容さを持ち、その名にふさわしい大法弟子として精進するよう努力する。

 最後まで修め、師父と共に元へ返りたい! 同修と師父に感謝します。

 2006年12月24日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2006/12/24/145327.html