日本明慧
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自我を放下し、共に手をつないで共に衆生を救い済度する(六)


 文/吉林大法弟子 昕清

(明慧日本)

 * 自我を放下し、手をつないで共に衆生を救い済度する

 現在、衆生を救い済度する事はとても急迫なことです。師父が縁のある衆生を私たちの前に按排してくださった時、私たちはどのようにして彼らを救い済度すべきなのでしょうか? 私たちが法をもって絶えず自己を放下し、正法と衆生を救い済度することを妨害するすべての観念を放下し、交流を通じてより多くの同修が活動に参加でき、一人ひとりの修煉者が、自分自身が置かれている環境の中で自分の修煉の道を歩んでいけるようにすべきです。同時に、私たちの周りに良い意味で真の「法の勉強を競い、トラブルに遭遇すると内に向かって探すことのできる着実な修煉環境」を作らなければなりません。そうすることによって初めて私たちは、法を実証する中で同修と協調し合え、寛容し合うようになり、より多くの衆生を救い済度することができるのです。 

 往々にして私たちは、法を実証する活動の協調の中で自分がやっていることが一番重要だと感じ、本当に重要視しなければならないことをなおざりにしがちです。実は、自我を放下できないということ自体が「私」に対する執着の現れなのです。また、全体の角度から考慮すべきでした。地元の何人かの同修が国安に包囲された時のことですが、当時、私はそれを聞いて真っ先に浮かんだ念として、直ちにこのことを多くの同修に伝え、正念を発して邪悪の大法弟子に対する不法逮捕の陰謀を全面的に否定しなければならないと思いました。同修たちに知らせてから、私と何人かの同修は、逮捕されている同修の住まいの近くで正念を発しました。しかし、しばらくして私は他の同修への救援資料編集がまだ途中であることが気になり、他の同修に「あなたたちはここで正念を発してください。まだ仕事が残っていますので私は帰ります」と、言いました。戻ってから正念を発しても良いと思っていたのです。

 同修は私をちらっとみて何も言いませんでした。しかし、私は自分のどこかがおかしいと感じました。それで立ったり座ったりを繰り返しました。突然、自我に執着し過ぎているという念がひらめきました。当面同修が国安に逮捕されたばかりで真っ先にやるべきこととして正念を発しなければなりません。同修を救出することは、私たち全体がやるべきことだったのです。しかし、私はなぜ自分がやっていることに、これほど執着していたのでしょうか? 今私たちがやっていることがやるべきものではないと言っているのではなく、人為的に私たち全体をいくつかに分けてはいけないのです。邪悪が私たちを試す時は、一個人ではなく、私たち全体を狙ってくるからです。

 一緒に協調をやってきた同修が地元を離れてからも、私は依然としていつものことをやりました。ある日、他の地域のある同修が私をたずねて、「あなたが作った真相資料を配布する人がいるか、考えたことがありますか?」と、聞きました。それを聞いて私は一体彼が何を言いたがっているのか、さっぱり分からなかったのです。彼は、「あなたたちは、今全体上でとても乱れています。つまり、ばらばらなのです。同修の間の情報伝達も悪いし、あなたは部屋の中で真相資料ばかり作っていて、外のことはどうなっているのかも知らないでしょう」と、つけ加えました。このような話を初めて耳にして私は、その同修と交流を行いました。交流の中で同修は私に協調の重要性、つまり、協調人云々ではなく、協調人は同修の間の架け橋であり、それは肉眼で見えるものではないが私たち一人ひとり分散している個体をつなぐ役割を果たし、真に全体の法力を顕現させる役割であると、説明してくれました。

 実はこれらのことは形あるものではなく、すべての学習者がしっかり行って初めて全体上の協調が一致するのです。同修の啓発の下で私は、真相資料の編集を他の同修に分担させ、より多くの同修が正法活動に参加できるようにし、私自身は時間の余裕を作って多くの同修と接触しながら協調して行くべきだと認識しました。その後、私は資料編集に適切だと思っていた同修一人を見つけて資料編集に携わらせました。実は、私たちが法に符合している時、その願望さえあれば師父は必ず私たちを加持してくださるのです。なぜなら、「修は己にありて、功は師にあり」なのだからです。 

 同修に資料編集を教えることは、ある意味では自分でやるよりも難しいことでした。しかし、これは修煉であり、常人の技術学習ではありません。それで、まず、法をもって同修と交流し、その後同修の受け入れられる能力に応じて少しずつ教えました。最初からあまりに難しさを感じさせ過ぎて相手を逃げさせてはいけないと思い、絶えず激励したり、正念を持って交流したりしました。一番印象に残っているのは、必ず相手の立場に立って物事を考え、自分の考えをもって同修に求めてはいけないということでした。ある日、私は同修が真相資料の編集をめぐって圧力のあまり悩んでいるのを見て、「安心してください。あなたが慣れるまで私がずっと一緒に責任を持ってやりますので心配しないでください」と、言葉をかけました。

 私の話を聞いて同修は、まるで肩の荷を下ろしたかのようにほっとしました。その後私たちは、明慧から粘着型チラシの見本をもらい、自分たちで現状に応じて作り直すことになりました。当時、粘着テープを作っている若い同修一人が見本をそのまま使って迫害を受けている同修への救援チラシを作りました。しかし、文字が多すぎてチラシがとても混雑していました。それを見て私は、善意をもって彼女に、「私たちは明慧から見本を提供してもらっていますが、必要に応じて現状に相応しい資料を作らなければなりません。文字が小さすぎると読みにくいのではありませんか」と、提案しました。私の指摘を聞き入れて同修は、資料を作り直しました。その光景を見て私は、大法弟子は本当に善の心を持って迷いの中の衆生を救い済度しようと必死になって頑張っているのだと、感動しました。絶えず協調を重ねて行くうちに、真相資料の編集を担当した同修の腕も絶えず上達していきました。

 私は二年以上にわたって資料編集の方面においてやってきたものすべてを同修に教えました。そして、法を実証する活動の協調に積極的に携わるようにしました。真相資料の編集は見えるものですが、協調は目に見えないもので一日中走り回っても、一体何をしていたのか結果としてすぐ目に反映できるものではありませんでした。その代わりに、多く耳にするのは批判と指摘及び非難でした。このような状況下で、私は毎日絶えず自我を突破して心の容量を増やさなければなりませんでした。以前、私は毎日ただパソコンばかり見ており、パソコンは私の法の武器であり、同時に私の友達でもありました。私は、ほとんど同修たちとの交流もなく、どのように自分を修めるかについても知りませんでした。私と一緒にやってきた同修たちにどれほどの苦労をかけたのか想像し難いものでした。同修の一人が私にこのように話しました。「以前、あなたに話があっても言えませんでした。まだ言い終わってもいないのにあなたの目は大きくなるばかりだから」。私は、なんて酷いことをしたのかと反省しました。私が着実に自分を修めていなかったため、同修たちに障害をもたらし、それは、ただすみませんという一言で済ませられるものでもありませんでした。正念は口先だけに留めるのではなく、必要に応じて直ちに改善しなければなりません。 

 同修たちと協調する時、私はとても悩んでいました。前の協調人が地元を離れる時、他の同修に私に協力しないようにと話を押し付けたということを聞いて私は泣きました。とても悲しく思いました。色々な方面から圧し掛かって来る心性の試練と圧力から、私は「百苦一斉に降りかかる」という感じを受けました。私は自分自身に、私は一体修煉できるのかできないのかと問いかけました。私は同修に不満など持つことなく、ただ自分自身があまりにも酷すぎだと思いました。その後、私は師父の炉の鋼湯は木の端切れを溶かし、大法はその炉の鋼湯のようであるとの説法を思い出しました。私の欠点と足りないところは、まるであの木の端切れのように私がそれを取り除いて、克服しさえすれば大法は必ず私を変えると信じました。その後、他の地域のある同修が久しぶりに私に会って、「お嬢さま、前とは違うね」と、言葉をかけました。

 本当に前と同じように振舞っていては修煉などできるはずがないと私は思いました。自分自身の変化から、私は観念を用いて同修のことをはかってはいけないと認識しました。往々にして人間の観念は人を欺き、にもかかわらず人間はそれを自分だと思うのです。なぜなら、観念というものが一旦形成され、それが実践の中で確立されて頑固になると、人間はますます真の念をもって物事を認識し判断することができなくなるからです。このような観念上の変化により、私は改めて同修たちの足りないところの判断を見直すことができました。

 私たちは常人から修煉を始めているのです。法に基づいて物事を認識するようになってから、私に協力してくれる同修も次第に多くなってきました。私は同修の過去を重く見ず、現在の私たちの状態が法に符合しているかどうかのみをみて、もし、私たちが修煉者の状態を保っていて、心が法の中にいれば、言うまでもなく私たちは協力し合うべきです。もし、未熟なところがあっても私たちは、黙々とそれを補い合い、円融しなければなりません。

 ここまで書いて、一つのことに思いつきましたが、今まで私と一度も協調をやったことのない同修が一人いますが、私は周りの同修の口から彼女に関する様々なうわさを聞きました。知らず知らずのうちに私は、彼女に対してある種の観念を形成し、もともとそのような人だったのかと思いました。ここ一年近くにわたる協調の中で、私は彼女のことを忘れていたのですが、ある日突然思い出しました。私の感覚では周りの同修たちが言っているほど酷い人ではありませんでした。このことを通じて私は、うわさに耳を傾けたり、ある同修の話をむやみに信じたりするのではなく、現実の中で実際法理をもって良し悪しを決めるべきだと認識するようになりました。同修に対して良くない観念をもって量ろうとしては、同修の間の協調に甚だしい悪影響をもたらしかねないのです。

 (続く)

 (第三期大陸大法弟子修煉体験書面交流大会原稿)

 2006年12月27日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/10/26/140723.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2006/11/23/80213.html