日本明慧
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自我を放下し、共に手をつないで共に衆生を救い済度する(七)


 文/吉林大法弟子 昕清

(明慧日本)

 同修たちとの協調の中で、私たちは同修に何かを指摘する際に、相手が素直に受け入れない場合、それでも言うべきなのか、それともやめるべきなのかの問題において、私にはとても痛い教訓があります。法の勉強と煉功を重視しない周りのある同修を指摘した時、相手は一連の理由を並べて私の話を聞き入れるどころか、かえって私に話さえもさせてくれませんでした。その後、その同修が迫害を受けて死に至って初めて、私は自分自身に最大の責任があると実感しました。なぜなら、彼女はすぐ私のそばにいたからです。

 このことは、私にとても大きな教訓を残しました。同修が迫害を受けた後に救援を施しても間に合わないのです。問題を見つけた時、善意をもって優しく指摘してあげるべきだったのです。もし、同修が受け入れなかったとしても、かえって、自分の中に原因を探し、常人の執着、観念が働いていて、相手の立場に立って物事を考えていないのではないかと考えるべきです。私たちが真に相手のためを思って動くのであれば、きっとその心が伝わるはずです。

 しかし、私たちの指摘は、なぜ、相手の心に届かないのでしょうか? それは私たちが、相手がいま何を一番必要としているのかを知らないからです。同修の間で発生するトラブルの中で私は、「理屈」ばかり並べて責めるような言い方ではなく、相手に対する寛容、激励、正念の加持、他にも相手の立場に立って一緒に困難と魔難に立ち向かう姿勢を取らなければならない、と認識するようになりました。私たちが本当に相手を配慮し、無条件で自分の中で原因を探すようになれば、トラブルは直ちに消えてしまうのです。 

 今年初めて私に協力するようになったある同修のことですが、彼は法の勉強と発正念をあまり重視していませんでした。しかし、師父が説かれた法理については良く分かっているようでした。私はあまり自信がなく、その後は相手を信じてあげようと思いました。私の安全は私自身に由来し、私が真の修煉者の状態にあるかどうかにかかっているのだからと思い、自我を放下するようにしました。私は黙々と同修のために正念を発し、同修を取り囲んで法の勉強を邪魔する邪悪な要素を取り除きました。そして、彼を誘って一緒に学法会にも参加しました。同修を助ける時、私たちは相手にいま彼を助けているのだと気付かせてはいけません。実のところ、振り返ってみると相手を助けるということの本当の意味は相手を助けることにあるのではなく、その過程の中に私たち自らの修煉があるのです。

 ある日、ある同修が大きい機械を買って『九評』の宣伝をしたいと提案しました。私は、まだ私たちの地域では家庭型資料作成で進めるべきだと思い、自分の考えを同修に話しました。実際、私は同修の法の勉強と修煉に問題があると感じていました。しかし、当時彼は受け入れませんでした。しかも、とても明快な態度をとっていました。それを見て、返って私の法が心のバランスを失いました。あなたのためを思っているからこそ言ってあげたのに、なんてふざけた態度を取るんだ、と。しかし、家に戻って、どう考えても私に問題があると感じました。

 なんと言っても、彼の出発点は悪くなく、しかも、彼自身のためではまったくなく、私たちの地域でまだ『九評』が広く伝わっていないことに焦っていただけでした。私が彼の立場に立って物事を考えるようになった時、彼は私のすべてを受け入れてくれました。なぜなら、私は彼のことを自分のこととして考えていたからです。それから、私は心の中で、もし彼が助けを求めてきたら必ず協力してあげたいと思っていました。その後、彼は新しい機械のことも口にしませんでした。これらのことを通じて私は、同修との交流は相手が変わるとか、相手が受け入れてくれないとかの問題ではなく、如何に始終善の心を持ち続け、その過程の中で自分を修めるのかが最も肝心なことであると認識しました。同修と本当に一つになって難に立ち向かう心があるのなら、もし、本当にそれができれば、すべてが変わるはずです。 

 当然ながら修煉の中で認識が明確である時は、やることすべてがスムーズに運びますが、認識が朦朧としている時は、トラブルや正しくない状態が長引きます。このような場合に直面した時、私たちは法をもって絶えず精進することが必要です。実は、私の常人の心は私の周りで長期にわたって協調してきた同修を通して現れました。私は周りのすべての同修に対して真心を込めて対処し、一日中ずっと一緒に大法の仕事をやっている同修に対しては、特に気持ちを込めて思いやっていると思いました。しかし、そうであればあるほど、相手は私に対して不信感を抱いたりすると、すぐ常人の状態に陥り寂しさを感じました。

 ある同修と協調を始めたばかりの時のことを覚えていますが、当時、その同修がある原稿を書きました。私はその同修はとても成熟しており、また技術のみならず文書作成も信頼できるから、すぐに印刷して掲載しても良いと言いました。しかし、思いもよらないことに私が一日中外で忙しく走り回って夕方資料点に戻るやいなや、同修から、「この原稿はあなたが書いたでしょう?」と聞かれました。私は驚きました。原稿の内容がどんなものであるかも知らないのに私が書いたなんて。彼女は原稿の内容は前の協調人のことであるのと、私たち地区のことを書いていることから、この原稿は完全に自分が書いたものではないと否定しました。

 最初私は、彼女が冗談を言っているのだと思いましたが、本気でした。彼女は私の解釈に耳を貸そうともしませんでした。実は、その時の彼女の現れは、私の心性の向上のための按排であったのだと認識できませんでした。その日の夜、私は家に帰って布団を頭に被って泣きました。以前、他の同修との間にトラブルがあった時も、まったく知らないことを私がやったこととして言われ、今になって考えると笑ってしまうことですが、当時は、どうしても相手の態度が気に食わず、なぜ人をこんなふうに取り扱うのかと、むしょうに反発したくなりました。実は、これらは強烈な嫉妬心ではないでしょうか? 

 嫉妬心について私にはとても痛い教訓があります。この種の執着は直接私たちの協調に影響をもたらし、衆生に対しても無頓着にさせるのです。同修にしても私にしても誰もが大法を実証するためにやってきて一緒になり、過ぎ去ったことは過去のこととして流さなければならないと自分を納得させました。しかし、後になって気付きましたが、これはただの表面上での放下に過ぎず、法をもって真に認識したわけではありませんでした。

 心性の真の向上がなかったため、次から次へとトラブルがやってきました。当時は、ちょうど私たちの地域で「洗脳班」が作られるなどで、私は同修と資料収集に追われました。そして、原稿整理のやり方を同修に教えたり、交流するなど二日間も家に戻りませんでした。ある程度落ち着いて家に戻ってくると、同修はついに心の中に溜めていた不満を噴出しました。当時、私も心の余裕がほとんどなく、受け入れることができませんでした。特に、同修が私のことを偽りだと指摘した時は、あまりの酷さにすぐ泣いてしまいました。これは私が生まれて初めて耳にした一番酷いことでした。

 さらに、強烈に私の痛いところに触れたのは、彼女が前の同修との不愉快な絡みまで口にした時でした。その瞬間、私は自分が強く傷付けられたと感じました。自分なりに、過去のことは放下したつもりでしたが、いざ同修から言われた時とても心が痛くなりました。当時、彼女が言った中でいまだにはっきりと記憶に残っているのは、「あなたの涙はすべてを遮っている」の一言です。夜中に私は、どこへ行こうかと迷いました。同修に心配をかけるのが怖くて二時間後、私はやはり家に戻りました。翌日、私は静かに同修の話を聞きました。自分はあまり良くできていないと、反省の言葉も言いました。しかし、これは内心からの言葉ではありませんでした。私は、自分に問題があると気付きました。いくら不満があるとしても、これは修煉であり、修煉は実はこれらの常人の心を取り除くのではないかと表面では納得していましたが、実は、真にそれを認識することはできませんでした。このトラブルによって私は、二日間にわたって何も手につきませんでした。 

 『ロサンゼルス市での説法』を通じて私は、自分にある問題を認識することができました。「皆さんが行なったすべては、私は全部見ており、本当に素晴らしいことです。しかし、先に話したことは最も根本的なところ、最も本質的なところから、この人が修煉者であるかどうかを証明しているので、人から指摘されたくないという執着を必ず取り除かなければなりません。ほかの面で、すべて良く行なっていても、この面が良くできなければ、あなたは修煉者とは言えないのです。以前の修煉者は、まずこの面に力を入れており、これは弟子を選ぶ時の条件でもありました。大法弟子が迫害され始めた99年7月20日以前、私はこのように要求していましたが、99年7月20日以降はこの問題を強調しなくなったのです。今日、私は再びこの問題を指摘して、同時に皆さんの形成した物質を取り除きます。(拍手) しかし、形成した習慣を改めなければならず、必ずそうすべきです。くれぐれも気をつけてください。これから、人から言われたくない人は、つまり精進していない人です。人から指摘されたくない人は、その人が表しているのは修煉者の状態ではありません。少なくとも、この点に関してこのように言えます。(拍手) この関をこれから乗り越えられない人がいれば、皆さんに教えますが、それは大変危険なのです! なぜなら、それは修煉者にとって最も根本的な問題で、最も取り除くべきものであり、必ず取り除かなければならないものだからです。取り除かなければ、圓満成就することができません。常人が大法弟子のことを行なっているようなことにならないでください。皆さんは圓満成就するためであり、福報のためではありません」。

 私は法理をもって認識することができました。私は、とにかく周りに口を出してもらいたくなかったのです。この方面において私は本当に自分を抑制しなければなりませんでした。私は自分に存在している問題に気付いた後、心から真に同修に感謝するようになりました。彼女に執着を指摘されて初めて、私は自分に存在している最も根本的な執着を見出すことができました。その後、私は、師父がなぜ彼女と私を一緒に按排してくださったのかを意識することができました。

 (続く)

 (第三期大陸大法弟子修煉体験書面交流大会原稿)

 2006年12月28日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/10/26/140723.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2006/11/23/80213.html