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自我を放下し、共に手をつないで共に衆生を救い済度する(八)


 文/吉林大法弟子 昕清

(明慧日本)

 私はこのように法を実証する過程の中で互いに向上し、共に精進していかなければなりませんでした。ついこの前、彼女とトラブルがあった時、私は、彼女はいつも良くない観念を持って私のことを量っていると感じ、実は私は彼女が思っているような考えをしていないと思っていました。私は彼女に誤解されるのが心配で絶えず言い訳をしました。おかしいことに、私は師父の説法まで持ち出して自分を証明しようとしました。後に私は、できるだけ彼女とは少なく接触し、互いが受ける「負傷」を避けようと思いました。しかし、私はそれでは邪悪の罠にはまってしまうのではないかと思い、心を静めて法の勉強をはじめました。法の勉強を通じて私は、私自身に存在する最も深刻な問題は、法を証明するのではなく、自分自身を証明しようとしているところにあると認識できました。

 師父は『2004年ニューヨーク国際法会での説法』の中で、「最近、私はいつもお互いに良く協調するようにと言っています。良くない心が取り除かれたかどうかに関わらず、皆さんと協調を取るようにしなければなりません。なぜ、時には各地区で意見が対立し、対峙しているのでしょうか? なぜ法を証明する中で、いつも意見を統一することができないのでしょうか? この問題は中国大陸において最近比較的目立っています。実はどういう問題なのでしょうか? とても簡単です。つまり、あなたが法を証明しているのか、それとも自分自身を証明しているのかのことです。もしあなたは法を証明していれば、ほかの人から何を言われても心が動じることはありません。もしほかの人があなたの意見、あなたの気になるところを刺激し、あなたの気分は斜めになったとしましょう。つまり、ほかの人が何かのことについてあなたに反対する意見、またはあなたの意見に同意していない時、あなたは気分が斜めになり、相手に反対したり、弁解したりすることによって、話題を脱線させ、今までの話題をまったく考慮してなければ、あなたの弁解が最も善意な弁解であっても、あなたは自分を証明していることになります。(拍手) なぜならば、あなたは大法を最も大事なこととしてみておらず、そのとき最も気になっているのはあなた自身のことなのです」と、述べられました。

 自分を証明したいという執着があることに気が付いた私は、もう一度同修に感謝しました。修煉は物を持って良し悪しを決めるのではなく、それらの純正ではないものを取り除くことではないでしょうか? 自分では、自分のことを名利に淡白であると自負していたはずなのに、なぜ、法を実証する過程の中で自分に執着してしまったのでしょうか? 後に私は、徐々に一つの問題を明確にすることができました。つまり、私は師父と大法、そして私との関係を正しく処理することができませんでした。もし、師父と大法がなかったら、六道輪廻の中で私たちは、どうなったのでしょうか? 師父が私たちに与えた知恵は、法を証明し、衆生を救い済度するためのものであり、自己を証明するものではないのです。果たして、これらの執着が許されることなのでしょうか?

 師父は「猛撃一掌」の中で、「責任者が常人の中でどれほど多くの仕事をしたとしても、すべて自ら進んで大法のために仕事をしているのであって、仕事の成功は常人の中での現れ方に過ぎず、人に法を得させることと大法の広まりは、大法そのものの威力と法身の具体的な按配によるものである。わたしの法身がこれらのことをしなければ、大法を広めるどころか、責任者自身も保障されがたいので、いつも自分がいかに偉いかと思わないでほしい。大法には、名も利も官もなく、ただ修煉のみなのである。」と、説かれました。

 私が心の底から真にこの法理を認識できた時、自分の悟性がとても低いと感じました。当初、同修との協調の中でぶつかった多くの問題も、つまり、これらのことが原因で、一年が過ぎてやっと認識できるようになったのです。その後の協調の中で私は、同修たちが私のことを指摘する時、静かに聞き入れながら絶えず内に向かって原因を探しました。 

 最近、私は他の仕事で忙しくしているのですが、ある同修の話によると、私と協調をやっていた同修が、私が自分のことにあまり言い訳をつくらなくなっているのをみて、彼女にも大きな変化が起きたと言いました。私は心から協調に対してもう一つの理解を得ることができました。つまり、私たちが絶えず自我を放下し、常人の心を放下し、法に同化して寛容な心を持ってトラブルに対処した時、私たちが遭遇しているいわゆるトラブルはすぐ消えてしまうのです。これこそが、自然と得られる協調の役割ではないでしょうか? 

 先日私は夢を見ました。ある広いホールにたくさんの同修が集まってきた中で、私がその真ん中に立っていました。ある同修が私に、あなたたちの協調がうまく行くか否かのすべてはあなたの心の中にあると、話しました。私は、自分は内に向かって探すこともできるし、師父も修煉者がもし、自分の最も本質的な利益を固守していては、それは偽りの修煉であり、真の修煉ではないと、説いておられるとはっきりと答えました。私がここまで話した時、同修は私に煉功しないかと誘いました…。この夢が私に与えた啓発はとても大きいものでした。実は、私は同修との間のごたごたを解決する時、法をもってより多くの同修と交流していたら、邪悪に隙に乗じられることはなかったはずで、迫害の機会も与えなかったはずではないでしょうか? 

 同修とのトラブルの中で、私はもう一つの理を認識することができました。必ず同修に対し正念をもって対処し、決して自分の観念をもって同修のことを量ってはいけないということでした。私が見てきたいわゆるトラブルと誤解の多くは、ほとんどこれらの中から発生し、またすぐに交流を行わないと邪悪に隙に乗じられてしまい、互いに相手に不信感を抱くようになり、内部で力を消耗してしまうという結末になるのです。実は、師父はこのような環境を利用して私たちが内に向かって探し、真に修煉して向上できるように求めています。なぜなら、私たちの向上が第一なのだからです。純正な心を持った状態下での行いこそ、神聖たるものになります。同修たちが私に対する態度が良くないとか、私に対してああだこうだなど、実は私たちの心性の向上を必要としているのです。いつも、周りの人ばかりに目をつけて文句を探すのではなく、自分自身を修めなければなりません。 

 二日前のことですが、ある同修が真相チラシを配布する際に、警察に不法逮捕されました。その後、その同修は正念の下ですぐ戻ってくることができました。しかし、当時私は逮捕された同修のことを聞いてとても悲しく思いました。自分がやるべきことをやっていないと反省もしました。なぜなら、逮捕された同修は夫婦とも大法弟子ですが、通常はとても閉鎖的で他の人とあまり接触をしませんでした。ご主人の方は奥さんからの指摘を素直に受け入れようとせず、このような状況は、法の勉強会の中でだと協調できるものだと思いました。その後、私は協調人として何を協調すべきなのかを明瞭に認識することができました。私たちは同修たちが徐々に邪魔を少なく受ける環境を作らなければならなかったのです。その環境の中で、集団で法の勉強を行い、交流を通じて互いの足りないところを見つけ、三つのことをしっかりと行う中で真の向上ができるようにしなければなりませんでした。これらの認識がはっきりとできてから、私たちは絶えず法の勉強会を開き、心を静めて一緒に法を勉強し、交流を通じて絶えず執着を取り除いていきました。正念を発する時、なぜ手が倒れるのか、どうやって慈悲の心をもって真相を伝え衆生を救い済度するのか…これらは決して表面的に大きい規模ですさまじい勢いで行うことではないと感じました。

 文章はこのくらいにしたいと思います。私は、これまで二回の法会の原稿も書いたことがありますが、今回のように明確には書きませんでした。その時は、ただ、師父と大法に対して如何に賛美するかにばかり夢中になっていました。なぜなら、もし師父がいらっしゃらなかったら、弱虫のような私が神に向かって修煉する大法弟子になれるはずがないからです。更に、正法時期の大法弟子として神聖な使命を担い、心の底から法を認識することなどなおさらのことです。そして、かつて私に協力した同修及び今現在私に協力している同修のみなさんに言葉を贈りたいと思います。みな心を合わせて大法の沐浴の中で、共に手をつないで共に衆生を救い済度していきましょう。最後に師父のお言葉を持って互いに励まし合いましょう。

 「皆さんが集ってくることは容易いことではありません。今皆さんは一緒にいますが、圓満成就したら誰もお互いに会えなくなりますと、以前私が言ったことがあります」、「ですから、何かをする時に協力しあうべきです。それぞれの大法弟子のことは皆さんのことです。誰も些細な事でお互いの間に大きな溝が生じるようにしないでください。これはいけません。大事にすべきです。しかも、大法のことをする時に協力しあい、より良く協力し合うべきです」。(『大ニューヨーク地区法会での説法と法の解説』)

 (第三期大陸大法弟子修煉体験書面交流大会原稿)

 2006年12月29日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/10/26/140723.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2006/11/23/80213.html