日本明慧
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何のために修めているのか

(明慧日本)長い間、自分の執着を取り除くことに努力すると同時に、いつも内心の深い所にどうしても払拭しきれない恐れる心があることに気づいている。この恐れる心は何だろうか、必ずを取り除かねばならないと思っているが、いくら努力しても完璧にそれを取り除くことができず、何かに遮られて根こそぎ取り除けないと感じている。ある日、私は学法する時、突然次のように悟った。これは単なる恐れるという概念ではなく、この恐れる心の背後には自分に漏れがあって迫害されることを恐れ、自分が精進しないことで旧勢力に隙に乗じられることを恐れ、常に精進しなければ漏れがあると旧勢力に妨害され、迫害されるものだと恐れている、これこそ恐れる心のもう一つの強烈な現われではないだろうか、自分が常人の中、そして天上における利益が損失を蒙ることを恐れると同時に、これは中共邪党の要素の現れではないだろうか。だから私はいつも心の中で落ち着かないのではないだろうか?

 私たちが旧勢力の按配を否定するには、自分の考えの中で、自分が完全に法に基づいているのかを見なければならない。自分の考えは本当に無私無我なのか、本当に師父の正法という出発点から出発し、大法弟子が法を実証し、衆生を救い済度する出発点から出発し、師父の成し遂げたいことを行い、師父の要求通りに法の中で精進することさえできれば、すなわち旧勢力の按配を取り除くことになり、しかも求めずして得られるのである。私たちは旧勢力の按配を取り除くために修めているのではなく、迫害に反するために修めているのでもなく、決して自分の見ることのできる個人の利益(人間と天上の利益)を保全するために修めているのでもないのだ。法を正す時期の大法弟子は、法を正す時期の中で、師父が法を正される中で残したいものを円容させるために修めているのであり、自分自身を円満成就させるのであって、真相を伝え衆生を救い済度しているのだ!

 2007年1月5日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/1/5/146212.html