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私は集団で学法する重要性を認識できた

(明慧日本)書き出してみれば恥ずかしいことだが、集団で学法する重要性を認識できたのは、ある経験に基づいていた。

 この前まで、私はずっと病気による業力に耐えていたが、心の中ではこれは病気だとは思っておらず、修煉して長年経ち、師父の病気のような業の消去についての説法もはっきり認識できたが、常人から見ればまさしく病気そのものである。しかも、私の体の表面まで現れてきた。最初の時点で、旧勢力による妨害ではなく、病気という形で業を消去しているのだと思い、人為的に邪悪による迫害を助長し、迫害期間を延ばしてしまい、最後にはご飯も食べられなくなり、私は非常に痩せてしまった。

 そのとき、私はもう一つの執着に陥ってしまっていた。すなわち、このようになってしまっては、どうやって法を実証できようか、早く元気にならなければならないと思い、この過程の中でも内に向かって、まだどんな執着を放下できていないのか、どこに漏れがあって旧勢力に隙に乗じられたのか、と内に向かって探していた。しかし、どのように探しても、自分の根本的な執着を見つけ出すことはできなかった。その間、私たちの学法チームの同修も、集団で学法し、私のために正念を発してくれていたが、顕著な効果は見られず、もうこの関を乗り越えられないのではないかと思った。しかも、もうこのような苦難をもう我慢したくないとまで思ってしまった。今から思えば、このような考え方は本当に法を正す時期の大法弟子という名にふさわしくない。師父に申し訳ないと思った。

 その後、師父による慈悲なるご加護のもとで、私の住まいの近くにある学法チームに参加し、同修の皆も私が内に向かって探すことを助け、正念を発していた。その過程の中で、私は自分の不足に気づいただけでなく、学法チームの不足にも気づいた。まず、私の方から言えば、私は安逸心、自慢する心、私心などに気づき、まだ気づいていない修煉するさまざまな要素が残っていた。しかも、同時に私たちの学法チームの閉鎖的な傾向に気づいた。これまでに、いつも師父のおっしゃっていた三つのことを皆と一緒に行っていたと思っていたが、今となって他の同修と比べてみて初めてその遅れに気づいた。これまで私が参加していた学法チームも、不定期に集団で学法していたが、あまり重視できてこなかった。今、私たちは定期的に集団で学法している。はじめて、師父がおっしゃっていたような「佛光普く照らせば 礼儀は圓明なり 共同に精進すれば 前程に光明あり」(『洪吟』「融法」)を本当に理解できた。

 それと同時、私は師父が『転法輪』で「最後には万に上のぼる脈を一面につないで、身体全体が一つにつながるような、脈も無くツボも無い境地に達する、これが脈を通すことのめざす最終的な目標です。」とおっしゃっていたその法理についてさらに深く認識できた。私たちが師父の慈悲なる済度を無にせず、精進してしっかりと自らを修め、三つのことを良く実行し、師父と共に帰ろう。

 何度もこの経験を書こうと思っていたが、何度も途中でやめた。しかし、この前の明慧週刊246号に出ていた「あなたは宿題を出したか」という交流文を読んで、私も宿題を出すことができた。

 2007年1月8日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/11/4/141739.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2006/11/27/80340.html