生命が無私であるように
(明慧日本)今日私はどのようにすればよく法を学べるのかについて皆さんと交流したいと思う。実は学法自体にも私と無私の境地を露呈することがある。師父は説法の中で「今まで私達は何につけても、常に以下のように考えています:私は如何にすれば良く法を学べるでしょうか、如何にすれば大法のために何かが出来るのでしょうか、どのように己を高めるのでしょうか、どのようにすれば更によく行なえるのでしょうか。何があっても法の勉強をしていることを感じ取り、身が大法の中に置かれている一員と感じ取ることが出来なかったのです。」だが今大法弟子はもう昔とは変わり、「皆さんは大法のために何かをやっていても、どんなことをしている時であっても、自分を大法の中に置くことが出来ました。今までのような私が大法の為に何かをしたいとか、自分の次元を高めたいとかといったような考えはもはやありません。どんな事をしていても自分が大法の為にやっているとか、大法の為にどうすべきかとか、大法の為にどのようにすればよりよく行なえるのかなどとは全く考えていないのです。自分を大法の中に置き、大法の中の一つの粒子として、何かをしているとき、それは私がすべき事だと思っていることをしています。」とおっしゃっていた(『北アメリカ五大湖地区交流会における説法』より)
今回、師父はまた、個人がしっかり法を学ぶ時の状態について触れた。そこで、私は個人がしっかりと法を学ぶことは個人の状態が良くなるにすぎず、もし集団で法に基づいて法を認識することができれば、きっとすばらしい境地であると思った。師父は私たちに無視無我の境地に達するようにおっしゃっていたので、法を学ぶことについて、私たちもこのようにすべきである。これまで、私の法を学ぶ状態が良かった時はほとんど妨害はなかったが、最近は妨害が絶えず、夫がよく私に話す言葉の一つとして、「あなたはどうしてそんなに私心が強いのか」である。仕事が忙しいため、夫は出張するたびに二日以上も家に帰れず、私が家で学法するたび夫はいつも機嫌が悪くなる。しかし、私たちが一緒に法を学んでからこのようなことは決して起こりえず、矛盾があってもただちに自分の内に向かって探し、解決することができた。師父は「融法」で「佛光普く照らせば 礼儀は圓明なり 共同に精進すれば 前程に光明あり」とおっしゃっていた。この中で「礼儀」が出てきたが、中国の三国時代では、皆「義」を唱え、そして孔子も「仁義礼智信」と唱えていた。私をなくすには「義」を守り、「信」を守らなければならない。これまでに、中共による迫害を受ける前に、私たちはいつも集団で法を学び、煉功し、心身ともに真・善・忍に近づきつつあると感じていた。他の学習者も、他人の視点から問題を考えていた。しかし、集団での学法の環境を失ってから、同じように法を学んではいるが、昔のような修煉における上昇の速さを感じることはない。今、法を正す中で、環境はまだ良くないが、しかし人々は皆このような環境を作り出すことは難しくはない。集団の中で求めるのではなくて、一人一人がしっかりと法を学び、全体を動かそうとする意識があるならば、すなわち自我から脱出することになる。いつも、自分がどうすれば向上できるかということしか考えなければ、かえって向上できなくなる。どんなに忙しい時でも、いつも第三者の視点で他人を思い、完全に他人のためにすべてを尽くし、学法、修煉の向上、精進も同じように考えるべきである。
この法は宇宙の衆生全体のものであって、個人のものではない。この広大な法、広大な慈悲が、新しい宇宙の無私無我の生命を作り出している。修復せよ、円容せよ、生命が無私であるように。
正しくないところはご指摘ください。
2007年1月13日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/12/8/144077.html)
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