日本明慧
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法をよく学ぶと同時に、煉功もしっかりとしよう


 文/中国大陸の大法弟子 雪蓮

(明慧日本)三週間前のある日、近所に住む同修との交流で煉功について話し合いました。彼が、「あなたのお母さんは煉功するとき、首が歪んでいますよ」と言うと、私も、「そうですね、動作もあまり正しくないです」と言いました。彼は、「(7,20以降)私は煉功の回数は少ないのですが、煉功する時はしっかりとしています。疲れるのですが、それでも続けています。煉功を終えると、体が軽く気持ちよくなります」と言い(彼は煉功の動作が非常に正しく、特に抱輪のときに少しも形が崩れない)、さらに自分の状況を話しました。同修は話の中で、以前のようにたくさん煉功できないことを弁解している部分はありましたが、それでも確かに私にヒントを与えてくれました。

 私は十年以上前に法を得た老弟子ですが、上記の問題(煉功が少なく、動作も正しくない「特に抱輪で形が崩れる」)は確かにずっとありました。この十年間の4000日のうち、5通りの動作を完全に終えたのは2000回ぐらいでしょう! それでは、知らないうちに5年間の煉功時間を無駄にしてしまったことになるのではないでしょうか?! それに、真に真面目にしっかりと模範の動作通りに煉功したのは何回でしょうか? もちろん、1999年7,20以前は、ほかの人に動作を教えたり、集団で煉功したり、法を広めたりしていたので、煉功時の動作も比較的正しかったのですが、7,20以降は環境が変わり、集団での環境を失い、だらけてしまいました。煉功の回数が少なくなり、自分の動作にも注意しなくなりました。実は、そのときの表れは私の真の心性の表れでした。以前は外部の力(集団の環境)に頼ってしっかりと煉功できていたのです。7,20以降、集団煉功の環境を失い、まだ取り除いていない怠惰な心、安逸を求める心、そして依頼心が暴かれました。私はどんどんこれらの執着に従い、執着はさらに強くなったのです。今日師父が同修の口を借りて私を諭してくださらなかったら、私は目覚めてはいなかったでしょう。

 怠惰な心であろうと、安逸を求める心であろうと、もっとも根本的な私心によるものではないでしょうか? 大法は素晴らしいと知っていて、自分も置き去りにされたくないのですが、苦を嘗めたくないのです。しかし、観念を変えてしっかりと煉功すると、疲れないばかりか、非常に素晴らしいのです。怠けて煉功したくないとき、私たちは師父の慈悲なる済度を考えたことがあるでしょうか? 師父の済度をさらに難しくしたのではないでしょうか? 本体の転化に影響を及ぼしたのではないでしょうか? 体内の生命体の新宇宙への同化と移行を妨げているのではないでしょうか? こう考えてみると、私たちは必ずしっかりと煉功しなければなりません!

 『法輪大法大円満法』の最初の部分の功法の特徴で、師父は煉功の作用についてこのようにおっしゃいました。「法輪佛法は命を修める部分もあります。これは佛家大乗大法の大円満法の動作によって煉ります。動作は強大な功力で功能と機制を強化し、法が人を煉る状態に達する一方で、体内で多くの生命体を生み出します。高い次元での修煉では元嬰すなわち佛体と多くの術類のものが生み出されます。これらはみな動作によって生み出されます。動作は大法の円容円満となる一部分です。これは完全な一通りの性命双修の修煉方法で、大円満法ともいいます。それゆえ本大法は修めると同時に煉らなければなりません。修が先で、煉は二番目です。動作をするだけでは功は伸びません。また、心性を修めるだけで大円満法を煉らなければ、功力は妨げられ、本体も改変できません」。

 『2001年カナダ法会での説法』で師父はこのようにおっしゃいました。「皆さんがとても辛苦だと知っています。皆さんは仕事をし、学習もし、家庭生活があり、社会活動もあり、同時に家事もして仕事もよく行い、しっかりと法を学び煉功し、真相も話さなければなりません。難しい! 時間的にも経済的にも比較的難しい。難しさで威徳が現れ、難しさこそ威徳を樹立するよい機会です。りっぱだ! 皆さんは修煉している人だから、難しくとも、さらによく行わなければなりません」。師父はとっくの昔に法を明確におっしゃっていました。しかし愚かな弟子の私はやはりよく行えず、真に自分と衆生に責任を負えませんでした。

 それから私が体験したことですが、しっかりと煉功しないと発正念の質に影響を及ぼします。発正念は功能と神通を用いて悪を取り除くわけですが、功能と神通は煉功によって強くなります。しっかりと煉功しない状況で三つのことをしっかりと行おうとするなら、それはまさに自分自身を騙しているのではないでしょうか? 『憶師恩』(『洪吟』)を読んで何度も涙があふれました。師父の正しさに私は深く感動し、師父の辛労に私は不安と自責の念を感じました。師父の伝法のときの辛労を学習者たちは見ましたが、師父のさらに多くの辛労を私たちは知らないし、知ることができません。私のような意気地なしの弟子がいかにさらによく行うか、これは師父の辛労を少しでも少なくすることに繋がるのではないでしょうか?

 もちろん、不足に気づけば自分自身を改善し、師父の要求、「法を学んで心を修め、円満の手段である煉功を加え、確実に本質から自己を改変し、心性を高め、次元を高めてはじめて新の修煉といえるのです」(『精進要旨』)に厳格に従い一歩一歩着実に自分を修めます。同時に、過ぎ去ったことはもはや挽回できないことをはっきりと認識しています。私はただ自責と悔恨に浸ることはしません。それこそ邪悪の罠にはまったことになります。私は師父の教戒「忍び難きは忍びうる、行い難きも行いうる」(『転法輪』)を心に刻み、慈悲で偉大な恩師のお導きのもとにどんどんより良くより正しく行えると信じています。

 2007年1月15日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/12/6/143867.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2006/12/12/80785.html