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旧勢力の按配を認めないことについて

(明慧日本)旧勢力の按配を認めないという師父のお言葉について、すべての学習者は自分なりの認識と理解がある。同修と交流する中で、同修の交流文を見る中で、私は一部の認識と理解はただ感性の面にとどまっており、しかも非常に強い感情を抱いていると感じた。

 例えば、ある技術面に長けている同修は、たくさんの同修がパソコンを使えるように助け、そして資料作成所を設立した。その同修の安全を考慮して、私たちはその同修の助けを必要とする時に、いつも私たちは自分でできる安全の問題を片付け、セキュリティに問題をもたらすの恐れのあるすべての問題を先に解決していた。しかし、その同修は顕示心が強く、得てして自分がいかに法を実証していることを他の同修に言い聞かせたりしている。私たちは何度も同修に、口を修めるよう、そして同修の顕示心を指摘していたが、その同修は正念を強調していたり、他の同修が外で活動できるようにするため、などとしてどうしても私たちの指摘を受け入れなかった。しかし、その同修の旧勢力の按配を否定することについて、正念が非常に強かったようで、何度も不法に逮捕され、何度も正々堂々と帰ってくることができた。しかし、3ヶ月前、彼は再び逮捕された時、不法な裁判に直面した。

 この同修の経歴は非常に考えるに値するものがある。法を学ぶことで私は、旧勢力の按配を認めないというのは、ただ口先にとどまるのではなく、それは実践の中で本当にできことで初めて否定できるようになると思う。私は個人的に、真に旧勢力の按配を否定するには以下の四つができなければならないと思う。

 一、旧勢力を否定する願望があり、邪悪な迫害にあうか否かにかかわらず、このようなはっきりとした願望がなければならない。

 二、執着があってはならない。私たちのするすべてのことは、必ず真に師父のおっしゃられたように、執着しないという基準に達しなければならない。

 三、はっきりと学習者が旧勢力の隙に乗じられる活動の原因を認識しなければならない。正に上述した同修のように、一方では旧勢力を否定すると言いながら、もう一方では自分の経験を顕示し、どうして旧勢力を否定できようか。つまり、同修のやっていることが旧勢力に隙に乗じられている内容が含まれているかもしれないということである。この点について、はっきり認識しなければらない。

 四、必ず実践の中で実行しなければならないこと。すべての認識と理解は、実践の中で成し遂げ、目標に達してはじめて旧勢力を否定することができるようになる。

 あくまでも個人の認識に過ぎないため、正しくないところはぜひご指摘ください。

 2007年1月16日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2007/1/14/146732.html