神の念について 文/大陸の大法弟子
(明慧日本)法に基づく一念は神の念であり、人に基づく一念は常人の観念です。たとえば、車にひかれても法に基づく正念があれば何も起こりません。それは神の念だからです。しかし、常人の観念で考えると、深刻な結果を招きます。大法弟子が法を実証する際、神の念を働かすか、それとも人の念を働かすかによって結果は歴然と違ってきます。まさに人の念か神の念かによって天と地の違いが現れるのです。
私が修煉の中で悟ったことですが、神の念をうまく発揮するには、真相を話し三退を促す際に、完全に修煉者の慈悲をもって行わなければなりません。慈悲が表れると、まさに心で考えるだけで物事を成し遂げられる状態です。何をしてもとても順調にことがはこびます。今では真相を話し三退を促す時に、以前のようにまるで喧嘩のごとく言い争わなくなりました。以前はほかの人が怒って大声で話せば自分はもっと怒ってさらに大声で言い返し、人の念、人の心を働かしていたので、当然良い結果が得られませんでした。今では、他人が大法に失礼なことを話しても、慈悲に善意をもって一つ一つ真相を話し、発正念とあわせて他人の背後の良くないものを取り除きました。他人が話す言葉は必ずしも本人の意思で話しているのではなく、悪党の毒害と邪霊のコントロールされているのです。このことが分かると、心性が向上し、心も穏やかになり、怒らずに冷静になることができました。
大法弟子はみな知っていることですが、発正念の際に心が穏やかでないと良い結果が得られません。私は突発的な事件に遭遇するといつも慈悲が生まれ、師父がそうおっしゃった声までも思い出します。あるとき、昼間にチラシを配っていました。私がその建物の中でチラシを貼り終えて階段を下りようとしていたときに、ある人がドアを開けました。私がそのドアにチラシを貼るのが聞こえたようです。彼女はチラシを持って大声で怒鳴りました。「戻ってきなさい! これはあなたが貼ったでしょ?」彼女はさらに私を追いかけようとしました。私は微笑みながら彼女に歩み寄り、慈悲をもって彼女を見ました。彼女はとてもかわいそうだと思いました。彼女は私が歩いてくるのを見ると、一歩下がり、チラシに見入っていました。私は「何もないなら私は行きます」と言って立ち去りました。後で思ったのですが、多くの同修はこのような状況にあって良くないことが起きています。もしあの時私が逃げ出したら、常人の観念に陥り、心を動かしてしまい、彼女はさらに激しく怒鳴っていたでしょう。
チラシを配るときに慈悲をもって人を救うという心で、一切を他人のために思えばとても良い作用を引き起こせます。私は何度かこのようなことがありました。建物に入ったとたんに上の階で人が出てくる音がしました。私は「ひとまず中に入って、私がチラシを配り終えてから出てきてください」と慈悲の一念を起こしました。するとその人は中に入っていきました。私がチラシを配り終えて建物を出ると、その人がまた出てくる音が聞こえました。
慈悲は神の念です(神の常なる状態です)。1999年に大法の迫害が始まってから、私は二年間音楽を使わずに煉功しました。その後、音楽をかけて神通加持法を煉るときに、「慈悲をもって」という言葉が聞こえて私は衝撃を覚えました。音楽をかけていなかった二年間はこの言葉を入れていませんでした。その後、私は「慈悲をもって」という一念を重視するようになりました。どこへ行ってもこの事を考え、師父がそうおっしゃったときの声も思い出せるようになりました。また、「佛光普く照らせば、礼儀は圓明となる」という言葉も心に刻み、一切を他人のために考え、純正な心を持ち、さらに正念が強くなりました。
慈悲は大法弟子が心を修めた結果得られるもので、常人にはなく、神聖なものです。だから常人の修煉者の前での振舞いは私たち大法弟子の心が引き起こしたもので、師父がおっしゃったように心をこめて物事に対処する法理を身をもって体験できました。
最後に師父のお言葉で締めくくりたいと思います。「あなたたち一人ひとりが心から法を認識できれば、それこそ無限の威力がある法の現れです。それこそ強大な仏法の人間界での再現なのです!」(『精進要旨』「警言」)
2007年1月23日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/1/12/146686.html)
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