座禅と心性の修煉
文/シンガポールの大法弟子
(明慧日本)私はここで皆さんと座禅と心性の修煉に関する修煉体験を分かち合いたいと思います。不適切な点がございましたらどうぞ慈悲を持ってご指摘ください。
私は1998年に法を得ました。双盤を組んだことがなかったので、単盤からはじめました。しかしそれでもかなり苦労しました。当時、煉功場で動功を終えると、指導員は「もう少ししたら静功を始めます」といいました。私はすぐに双盘をすることができなかったので、心の中で「この指導員は初心者である私のことを考えていない。私がまだ座禅もまだ組んでいないのに煉功を始めるとは」と思って少しその指導員を責めていました。後で師父が私たちにうちに向けて修め、自分のどの心が間違っているのかを探すようにおっしゃったのを思い出し、私は「いつまでもほかの人に私を待つように求めてはいけない、自分にもっと厳しく要求してもっとすばやく座禅を組めばよいではないか?」と考えを改め、指導員との関係を修正することができました。
当時私たちの煉功場では非常に苦を嘗めることができる多くの同修がいました。ある同修は座禅を組むときに背筋をまっすぐ伸ばしてとても良い姿勢でした。ほかの人はその同修を見て、彼はあんなに姿勢正しく座禅できるからきっと足が痛くないのだろうなと思っていました。実は、私が彼の隣で座禅を組むとき、いつも彼が痛みをこらえている声が聞こえます。しかし彼はただじっと動かずに座禅を組んでいるのです。別のある同修は業を取り除く際、ひざの内側の皮膚に大きな亀裂ができたのですが彼はただ水で傷を洗うだけで、ほかの処置は一切行わずに座禅を一時間行っていました。傷から血や膿が流れだしても彼はずっと姿勢を崩しませんでした。
同修のこのような精進ぶりを見て、初心者の私は大いに励まされました。ある時期、私は心が乱れて座禅を20分ぐらいしかできなくなりました。そのときもほかの同修は私にがんばって座禅を組み続けるよう励ましてくれましたが、私はどうしても続けることができませんでした。以前は45分間座禅を組めました。私は自分にもう一度最初からやり直そうと言い聞かせ、30分間の座禅から始めました。この30分の壁を乗り越えると、すべてが今までどおりできるようになりました。この期間私を支えてくれたのは同修の励ましと、そして何事も最後までやりぬくという精神でした。この経験を通して私は、「最後までやりぬく」という言葉はただ口で言うものではなくて、心性の向上によって初めて達成できるのだということが分かりました。
あるとき双盤を組んでいると、ある同修が「座禅を組むときに歯をぎゅっとかみ合わせないでください」と私にいいました。私はもちろん、座禅を組むときは上と下の歯は隙間を空けて、唇を閉じることを知っていました。自分が歯をかみ合わせていたかどうかぐらいは自分で分かっていました。きっと彼が間違えたのです。家に帰っても私は同修の間違いだと思い込んでいました。このとき、私は師父が「修煉の道のりでは一切の出来事は偶然ではありません」とおっしゃったのを思い出しました。それでは私自身にどんな問題があったのでしょうか?
私は座禅を組むとき、足が痛くて前後左右に体を寄せたりしていました。当時はただどうにかして最後まで座禅を続けるというのが目標でした。私はもう一人の同修と互いに励ましあい、痛くても一時間、痛くなくても一時間といって最後まで続けました。私は突然神通加持法の準備過程を思い出しました。「座禅を組み、背筋を伸ばし、上と下の歯は隙間を開け、慈悲を持って穏やかな表情を持つ」私が痛みを感じる心を取り除くと、足は今までどおり痛むのですが、唯一違うのは、その痛みによって心が乱れなくなったことでした。その後の座禅でも、足が痛くても穏やかな表情を保てるようになりました。
煉功場である同修がたびたび私の煉功の動作がほかの人より速いといいました。私は「私の動作はあなたよりずっと正確だ!」と心の中で思い、彼の動作は正確ではないといいました。彼は自分の問題点を見つけましたが、それでも今までどおり私の動作が速いと言いました。私は師父の説法でもって自分の不足の言い訳をしました。
その後彼はまた同じ批判を繰り返しました。このとき、私はこう思いました。「いつまでも表面上の問題を見て、彼が私の動作が速いことを批判し、私は彼の動作が正確ではないと言い返していたら、いつまでもお互いに批判し合っているだけで、少しも良い効果は得られない。中共の党文化のように『自分がしっかりできていないのに私を批判しないでください。私を批判したいのなら、先に自分がしっかりできるようにしてください』(『米国西部国際法会での説法』)というふうに考えてはいけない。彼の動作が正しくないからといって彼は私が動作を正すよう要求してはいけないのだろうか? 私はやはり内に向けて探さずに外に押し出そうとしている」と、ここで私は自分の問題点を見つけました。
私が自分にさらに厳しく要求してさらに良く行えばよいのです。その後彼が私を批判すると、私は単に彼が私をとがめているというように考えるのではなく、同修が私のためを思ってくれていると考えるようになりました。自分の煉功の動作が正しくないと気づいたとき、私は「あなたの動作はいつもほかの人より速い」という同修の注意を思い出し、自分に警告して熱心に煉功するようにしました。
私は早朝4時から5時にかけて公園で静功を煉り、発正念をするときに法輪の図形を前に置きます。私はこう自分に言い聞かせます。「私は単にここで煉功しているのではなく、同時に法を広めているのだ」と。ほかの人が見ていても見ていなくても同じ姿勢で背筋をまっすぐ保たなくてはなりません。
常人も私たちを観察しています。私たちが悪い姿勢で座禅を組めば、常人にどのような印象を与えるでしょうか? 私たちがみな自分自身に厳しくし、背筋を伸ばすよう要求すれば、それもまた法を広める作用があるのではないでしょうか? この過程で、やはりまっすぐに座れない人がいます。ほかの人の目には、背筋が曲がっていると映るでしょう。その人が自分自身に対して厳しく要求していないのか、それとも背筋を伸ばそうと試みているのか、果たしてどういう状態なのかはその人自身しか分かりません。
私たちが修煉する過程も同じです。誰かがよく修めていないように見えるとき、果たしてその人が自分に甘く、怠けているのか、それとも絶えずよりよく行おうとしている過程なのかは、その人自身にしかわかりません。私たちがただ表面上の問題を見るだけでは、同修の不足な点によって苛立ち、隔たりが生じるのではないでしょうか?
師父は『2003年元宵節での説法』でこのようにおっしゃいました。「大法弟子が一体として法を実証する中で協調すれば法力は非常に大きくなります」。私たちは、自分が法を大事にしているのか、それとも自分自身を実証することを大事にしているのか自分自身に問うべきです。修煉の中で、一度も間違いを犯さない人がいるでしょうか? ほかの人には問題がありますが、果たして私自身には何の問題もないのでしょうか? 私はほかの人の不足な点を寛大に包み込み、大法によって自分のすべての変異した思想と観念を修正し、師父が与えてくださったこの千載一遇の修煉の縁を大切にすべきです。私はただ師父が下さったものはもっとも良いものだと知っていますが、それでは私は師父のおっしゃったとおり力を尽くして修煉しているのでしょうか? 私はたびたび師父にこういいます。「師父、ご安心ください、私たちは必ずこのご恩に報いるようがんばります」。
法を正す最後の時期である今日は、まさに試験場の試験終了のベルがなる寸前のようです。ベルがなると、みな鉛筆を置き、書くのをやめなければなりません。さらに何か書こうとしてもそれは違反になります。私たちは自我を放棄し、法を重んじて自分にさらに何か不足な点がないかを探し、修正すべきです。師父は私たちのためにこんなに力を尽くされているのに、私たちに何も求めていらっしゃいません。私たちはどのようにして師父のご恩に報いることができるのでしょうか? 私は時々このことを考えます。学校の先生のように、生徒からは何の報いも求めず、ただ生徒たちが良い成績を取れるよう祈っていらっしゃるのです。師父の慈悲なる済度に報いうる唯一の方法は、力を尽くして修練して正果を得ることだと思います。
(2006年シンガポール法会でも発言原稿)
2007年2月3日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/1/17/146961.html)
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