日本明慧
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修の中に煉があり、煉の中に修がある


 文/大法弟子・十方

(明慧日本)これまでにも修煉体験を書いたことがあるが、あまりにも自分の考えを高く書き過ぎないようにしていたのは、自分の書いたことを自分自身が実行できなければ、師父を欺くことになるからである。しかし今回この文章を書くにあたって、私はこれも自我の執着であり、人心を持って修煉を図っているので、正念が足りない現われであることに気づいた。なぜなら円満成就した神仏はこのようにしないからだ。

 長い間私は煉功が足りず、時々煉功を怠けることがあり、ひいては数カ月に一回しか煉功しないときもあった。この面における向上はあまり見られない。最近私は学法チームで同修と一緒に学法し、煉功する中で、自分自身も積極的に煉功するようになり、法理において昇華してきたように感じた。

 例えば、動功をやろうと思っても、突然「疲れた、もうやりたくない」という考えが浮かんできてしまう。しかし正念さえ強ければ師父の説法を思い出す:「完全な性命双修の功法には、『修』も必要とし、『煉』も必要とします」(『転法輪』)。師父の説法の従うのか、それとも怠惰な心に従うのか? そう思うと煉功したくなる。しかし静功を煉功するときに足が痛くなり、おろしたくなるが、正念が強ければ、「これも心を修める過程ではないか」と思えば乗り越えられる。内に向かってその足を下ろしたい心を取り除けばうまくいくようになる。

 しばらくの間師父の説法のように、五式の功法を積極的に修煉すると、正念を発するときも、体のエネルギー場も非常に強くなるし、心を静めることも容易になる。正に師父が説法なさったように「動作は、一つは功能を加持する働きをもちます。加持とは何でしょうか? それは強い功力で功能を強化して、ますます強くさせることです。もう一つは、身体の中にたくさんの生命体を演化させなければならないことです」。「人の心性の各方面を全面的に向上させて、はじめて本当に上昇することができます」。(『転法輪』)

 まだ煉功を重視していない同修は、ぜひしっかり考えてみるべきである。内に向けて自分が煉功するのを妨害する心を取り除き、より積極的に法を実証しよう。個人の考えに過ぎないので、間違いがあれば、ぜひ指摘してください。

 2007年3月2日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/3/1/149896.html