日本明慧
■印刷版   

『修煉の一生』に対する私の理解


 文/ハルピンの大法弟子

(明慧日本)ある日私が『転法輪』第二講の「宿命通功能」の章を暗記する時、「人生を変えるにはもう一つの方法があります。実はこれが唯一の方法で、すなわちこれから修煉の道を歩むことです」の一文と、「修煉者となれば、あなたの人生の道を変えてあげてもよいし、修煉でしか変えられません」の一文を暗記するときに、何かを悟ったかのように、心に震えを感じた。

 この二つの文章を読んで、私は突然悟った。ある人が修煉の道を歩めば、すなわち彼の一生は修煉の一生となる。ならば生活における全ての出来事、取るに足りない小さな出来事でも、この人の修煉と関係があり、その人の心性を高め、執着心を取り除き、良くない観念を取り除くためにある。一人の修煉者がその面前にある出来事に対する最初の反応が法に基づいているかどうかは、実質的にその修煉者が修煉の道を歩んでいるか否かの問題である。もし法に基づいていなければ、その修煉者は常人の考え方で問題を解決しているのであって、師父の按排してくださった修煉の道を歩んでいないことになる。正に師父が説法の中で次のようにおっしゃっていた。「これまで、公園や、自宅で煉功するにあたって、けっこう真剣に煉功し、かなり敬虔で、真面目に励んでいる人がいます。しかし、その場を離れると、元の木阿弥元ので、常人の中での名誉や利益のために人と争ったりします。そういう人の功は伸びるでしょうか?」。

 しかし法に基づいていれば、すなわち師父の按排してくださった修煉の道を歩んでおり、最初は常人の考え方で問題を見つめるていても、その後に再び修煉者が法に基づいて考えることさえできれば、それでも修煉の道を歩んでいるのである。私たちが法に基づいて考えれば、自分が修煉から離れた道に気づくようになり、次回から良くなるように努力することができる。

 私がこの理を悟ってから、自分の毎日の考えにおける変動に注意するようになった。私の心になんらかの起伏が生じても、私はもう昔のようにその起伏につられて常人の考えで物事を考え、感情的にならないように自分自身をコントロールすることができるようになった。すなわち心を法におき、自分の身に起きたことは必ず自分の修煉と関係があり、自分の心が動じたならば、必ず自分には取り除かれるべき観念があるからに違いない。このようにすれば、修煉者は修煉の状態に入り、心を落ち着かせ、そして直ちに良くない部分に気づき、それを取り除けば、楽になれる。

 これは私が法を学ぶにあたって理解した部分である。ここまで書いて、漸く私も初めて師父はなぜ私たちに何度も法を学ぶように強調されるのかが分かるようになった気がする。私たちが心を静めて『転法輪』を読めば、必ずたくさんの法理を悟ることができるようになろう。法をしっかり覚えれば修煉の道をも良く歩むことができる。

 個人の考えに過ぎないので、間違いがあればぜひ指摘してください。

 2007年3月9日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2007/3/8/150341.html