日本明慧
■印刷版   

長春の法輪功学習者・関明徳さんが受けた迫害の死に至るまでの経過

(明慧日本)長春の法輪功学習者・関明徳さんは2001年2月迫害により、38歳で亡くなった。関さんは長春市装甲兵技術学院電子教研究室の主任であり、全軍の優秀教員であった。法輪大法を修煉する前、関明徳さんは体が弱く慢性病を患っていたが、修煉を始めてからすぐに健康な体を取り戻した。以降、彼は学法グループの指導員として、日々修煉に励んでいた。

 1972年以降、江集団による迫害の中、軍隊の中の法輪功学習者は転職または退役を迫られ、関さんは退役を選び、東北師大資料室に任用された。2000年末、大法の素晴らしさを実証するため、関さんは天安門広場に足を踏み入れることを決意した。天安門に着くと、関さんの同修は「法輪大法好」と書いてある旗を広げ、全ての学習者の心中の声を張り上げた。すると、何分も経たないうちに悪警が駆けつけ、多くの学習者を逮捕した。関さんはある年配の学習者が息子さんと同じ車に乗れるよう、一緒に来た同修とは違う車に乗り込み、2人はそれぞれ別々の場所に監禁された。

 関明徳さんは悪警に屈服せず、姓名も会社の名も言わなかったので、残虐な体罰を受けた。彼の頭は悪警の残虐な暴力によって、大きな傷口ができ、骨まで見えた。8,9日間に亘る非人道的な暴力により彼は息絶え絶えになった。彼の弟は、彼が北京に行ったのを聞いてモンゴルから彼を探しに行った。やっとの事で彼が拘禁されている場所を見つけ出し、大きく腫れ上がった頭と酷く傷つけられた顔を見て、呆然とし、10数万元という大金で彼を連れ戻して長春に帰った。

 一旦救助によって関さんは一命を取りとめ、頭部を十三針縫った。しかし、彼の口は大きく腫れ上がり、食べる事もできず、水さえ飲む事ができなかった。毎日点滴によって生命を維持していたが、時々家族を認識できなくなるときもあった。

 東北師大の社長は、後に彼が法輪功学習者であることを知り、彼との仕事の契約を解除した。また彼の子供が東北師大付属小学校に入る事さえ許さなかった。2001年2月、冤罪が晴れないまま、一人の若い命がこうして亡くなった。

 2007年3月10日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2007/1/28/147790.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2007/1/31/82206.html