日本明慧
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無私の正覚で法を円容しよう


 文/米国ユタ州大法弟子

(明慧日本)『2002年米国フィラデルフィア法会での説法』で、師父は「ある神がある方法を提示した時、彼らはそれをすぐに否定し、自分の方法を示し、自分の方法が最も良いと言うのではありません。彼らは他の神から出された方法の最終結果がどのようなものなのかをまず見るのです。道が異なり、一人一人の道も異なっており、生命が法から悟った理は皆それぞれ違っていますが、結果は同じかもしれません。ですから、神たちはまず結果を見るのです。到達する結果を見て、本当に達成したいところまで達成することができれば、それに同意します。神はこのように考えています。更に、足りない所があれば、無条件で黙々とそれを補い、圓満させます。神はこのようにして問題を対処しています」とおっしゃいました。

 これは一種の無私の正覚です。しかし、どうして一部の同修は自分の悟った法理に対して執着するのでしょうか? 自分の悟ったのが正しい、自分と異なる意見はすべて法に基づいていないと思うのでしょうか? 師父の説かれたすべての法を私たちは本当にとても良く理解したでしょうか?

 私は、覚者は慈悲であると感じますが、それは、覚者は至るところで衆生のために、他人のために考えているからであり、個人の悟ったことに執着していないからだと悟りました。修煉者として、私たちの歩くべき路は、一本の「無私無我で、なおかつ他人を先に自分をあとにするという正覚にまで修煉」(『佛性に漏れなし』)する路です。ある同修が自分の意見と異なる提案を聞いたとき、現す態度が反発的で、ひいては拒否するのであれば、これは修煉者のあるべき「度量」でしょうか? たとえ、大法のために考慮するとしても、たとえ正しく歩もうと思っていても、この拒否と反発の態度自体にすでに漏れがあり、すでに正しくないのです。

 大法弟子は一つの全体をなしており、大法弟子は一緒にいるとき必ず互いに円容すべきで、もし問題が本当に発生したら、ひとりひとりそれに関わった人はみな内に向かって探し、ひいてはこのことを目にした同修も、内に向けて自分を探すべきです。問題を処理するとき、私心があるかないか、全体的な高いレベルから、問題を処理しているかどうか、他人を責める気持ちを持っているかどうか、自分を守ろうとする気持ちを持っているかどうか、もし持っているなら、すでにとても大きな私心が暴露されているのです。

 私は、もしみなが本当に法を円容したい心を持っていれば、問題が起きたら、みなが真に問題を解決したい心を持っていれば、その問題は素早く解決できると信じています。しかし、もし個人の気持ちを混ぜていれば、それは問題を更に激化するかもしれず、問題がタイムリーに解決できないかもしれないのです。もしみなが自我を放下し、人心を放下し、集団の智慧と正念を利用して問題を解決するなら、すべての問題はすらすらと解決できます。もしみながもっと他人のために考慮し、自分のことを少なく考えれば、邪悪は付け入る隙がなくなります。

 邪悪が大法弟子をばらばらにさせようとするには、スパイを利用して弟子の間にトラブルを引き起こし、仲を裂かせるのではないでしょうか? しかし、修煉者が良く修煉できていれば、かれらは離間させることはできません。それはみなが最大限に寛容しあい、他人を考慮し、自分のことを最後に考え、仕事があったら、自分がもっとやり、良いことは他人に譲り、難しいことは自分がもっと引き受けるようにし、得と失にこだわらず、心が動ぜず、そこまでできれば、たとえ更に多くのトラブルが起きたとしても、すべて問題にならず、すべて解決できます。

 以上は、自分の次元での悟りであり、足りないところについては、同修らのご叱正をお願いします。

 2007年3月16日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/3/13/150610.html