後世を配慮し、師父を敬う
(明慧日本)師父の新経文『三界内の法を正すことを妨害することに参与したすべての乱神を全面的に解体せよ』が発表されてから、一部の同修は仏像を処分する問題について議論するようになった。3月15日に明慧ネットでは「仏像について」という文章が発表された。私はこの文章の仏像を処分する考えについて賛同するが、ここでは後世を配慮して、未来の修煉者に正しく師父を敬う形式を残す角度から、この問題について考えてみたいと思う。間違いがあればぜひ指摘してください。
法を正す時期の大法弟子として、師父は私たちにこの上なく崇高かつ栄光ある果位を与えてくださった。私たちは師父を尊敬しなければならない。だが今私たちが歩んでいる道及び行っていることも後世の人々に残され、もし私たちがよく実行できなければ、未来の修煉者も正しく行えなくなる。例えば仏像を祀る事について言えば、たくさんの同修の家には師父の肖像を祭ると同時に、様々な仏像、菩薩像が祀られ、中には様々な画像、ひいては家族の写真も師父の肖像の周りに張られて、毎日これらのものに対して焼香している。
実は、師父はすでに『転法輪』第三講の中で言及されたように、「原始佛教は釈迦牟尼だけを本尊(ほんぞん)として仕えていましたが、現在の佛教には多くの佛(ほとけ)、大菩薩が現われ、しかも、多佛信仰となっています。多くの如来に対する信仰が現われましたので、一種の多佛の佛教となっています。例えば、阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)をはじめ、薬師如来、大日如来などなど、それに多くの大菩薩も現われています。そうなると佛教は、釈迦牟尼が創立した当初の時とはまったく違うものとなってしまいました」。一部の同修は自分がきれいだと思うお守りをも仏壇に供えて焼香しているが、これはやるべきではない。なぜならお守りの仏像はいくら美しかろうと、大法の中でうまく正しく利用すべきであって、大法弟子がそれに対して焼香してはならないからである。
師父が法を伝えるようになってからすでに15年が経った。正法も最後の段階まできている。もし私達がまだ昔の師父が法を伝え始めた頃のように様々な仏像と菩薩像を祀っていたら、私たちは後世の人々にどのような印象を残すのだろうか。後世の人々も私たちを学べば、大法は永遠に不変なものとして維持できるのだろうか? 師父の新しい経文『三界内の法を正すことを妨害することに参与したすべての乱神を全面的に解体せよ』が発表されることは、まさに正法が新たにかつ最後の段階に入ろうとしていることを啓示している。修煉者の考えと境地にも大きな向上と昇華があるべきではないだろうか。
「仏像について」の一文には他人に仏像を壊すように命じているようなニュアンスがなく、仏像を処分するか否かは、修煉者個人の問題であると思われる。すべての修煉者の法に対する認識は同じ次元にあるとは限らない。認識できるかどうかは、個人修煉者の問題であり、誰もそのことについて他の同修を強制することはできない。まさに結婚するか否か、夫婦の情欲の問題に対する認識と同じように、一部の同修はいつも「常人の状態に符合する」ことを理由として、自分を変えようとせず、昇華しようとしない。一部の同修はたくさんの問題についてこのような状態にとどまり、非常に重い人心で考えている。執着を捨てきれず、しかも師父の説法の中から自分の取り除きたくない心を隠すために理由を見出そうとして、自分の昇華と向上を妨害している。
法を正す時期の大法弟子は師父と法を敬う問題について、自分を厳しく律し、後世の人々に配慮し、大法が永遠に不変であるように考えなければならない。正しく師父を敬い後世の人々のために正しい修煉の道を残すことも、師父の私達への期待の一つである。
2007年3月30日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/3/29/151727.html)
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