二言三言:選択について
文/大陸の大法弟子 金霊
(明慧日本)私は師父の説法を読み、選択の二文字を見るたび、心の中ではいつも大きな感銘を受け、私たち大法弟子、特に法を正す時期の大法弟子たちが正しく歩むことができるかどうかは、師父と法を信じる方を選択したかどうかにあると思う。一部の同修は、体の具合が悪くなり、いつも病院に行って検査を受けて結局病気があると診断された。しかし、病院に行って検査を受けようと思っていなかった者はただちに治癒される。これも選択による結果の相違である。病院に行った者は実質的に科学(医学)を実証したのである。でなければ、どうして病院に行ったのであろうか。それがゆえに、常人のような結果をもたらしてしまった。一方、病院に行かなかった者は、師父と大法を信じていたので、もう一度修煉者として病気のない状態に戻ることができた。他のことについても同じようなことが言える。もし真相を伝える中で、「私は大法弟子である。彼らを助けるために来た。」と思えば、師父と大法を信じる決心を体現し、自ずと真相をうまく伝えることができるようになる。一方、人間の観念を選択し、「この人は邪悪すぎて救うに値しない」とか「私の文化レベルが低いからうまく伝えられない」とか「私が伝えても信じてくれないのではないか」と思うと、得てしてしっかりと伝えることができなくなり、自分の観念が他者を救い済度することを妨害してしまったのだ。もちろん、大法弟子が修煉の中で出くわしたことのほとんどは、試行錯誤を必要としているが、最終的に師父と法を信じることを選択することも修煉における昇華の過程であり、一定の次元に達すると(非常に高い次元だと思うが)、初めて考えずに自然と師父と大法を信じることを選択するような状態に定着するのだと思う。これはつまり、法に同化し、大法弟子として成熟したことである。
この正法の最後の段階において、一部の同修(年配の同修)に病業の症状が現れたときに、中には妨害だと思う人もいれば、自分の業を消してくれていると思う人もいる。強いては自分の元々の体質が悪いことが原因だと思う人もいる。確かに一部の同修は、旧勢力による妨害だと分かっているが、発正念でこれらの妨害要素を取り除くときに、心を静めることができなかった。少し前、私の体に大法弟子としてあるべからざる状態が現れたとき、私はこのように発正念をして邪悪を取り除いた。すなわち「私の体を妨害し、私が三つのことをすることを妨害する要素たちよ、大法と同化することに同意するならば、私の近くにいて待ちなさい。私が法を実証することを妨害しないでください。もし3分経って私を妨害し続けるならば、私はこのような妨害要素を徹底的に取り除かなければならない」と考えていた。もちろん、自分に漏れがあるのかを考えなおさなければならないのである。
もう一つのことについて同修に注意を促したい。たくさんの同修たちは、さまざまな方法で監獄に拘禁されている同修たちに経文を送る努力をしてきた。非常によくできていると思う。監獄の中にいるたくさんの同修もこれらの経文を暗記し、大法に同化しようとして正念を強めている。しかし、同修たちは大法弟子の書いた交流文章を監獄に送らないでください。なぜなら、不法に拘禁されている大法弟子たちは、師父の経文であるかどうかを識別することができないからである。かつて、私たちは監獄に拘禁されていた同修に、同じく同修の書いた詩を送った際、その同修はこの詩を師父が書いた経文だと思っていた。しかも、そのような環境の中で送った文章は、師父の経文であるかどうかをさらに説明することが難しいのである。ここにおいて、同修たちに注意を促したい(もちろん同修の問題について書かれた文章を送ることもできるのだが、必ず大法弟子の文章であり経文ではないことをはっきりと記さなければならない)。
2007年4月3日
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2007/4/3/151987.html)
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