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良く法の勉強をし、後天的な観念を取り除きましょう!


 文/無名

(明慧日本)修煉者にとって、修煉とは馴染みのないものではありません。しかし、本当の内涵は、それほど簡単なことではありません。私に言わせれば、ここ数年にわたる修煉の中で、修煉の難しさと苦難が分かるようになりました。また、かつて乗り越えなければならないたくさんの難関もありました。しかしながら、うまく乗り越えられなかった時もありました。最終的には乗り越えましたが、長い時間をかけてしまいました。どこで悟れず乗り越えられなかったのかわかりませんでしたが、ひたすら、法の勉強をすべきであることだけは知っていました。師父は「法はすべての執着を突き破ることができ、法はすべての邪悪を突き破ることができ、法はすべての嘘を突き破ることができ、法は正念を固めることができます」(『妨害を排除する』)。 一つまた一つの難関を乗り越えてきたものの、しかし、本当に悟って向上したわけではありません。

 去年、私はこの問題について考えたことがあります。修煉って、こんなにも苦しいものなのでしょうか? 問題は、一体どこにあったのでしょうか? 絶えず法の勉強を通じて内に向かって探しているうちに、自分の修煉の中にたくさんの漏れがあって、邪悪、腐った鬼に隙に乗じられて、後天的に形成された正しくない観念が強化されてしまったことに気が付きました。師父は『最後になればなるほど精進すべき』の中で「もちろん、こういう情況にいる多くの弟子は、実は最初、自分にある軽い執着または観念の妨害に気づくことができず、邪悪に隙に付け入られ、妨害の要素を強められたから、このようになったのです。認識したらすぐ追いついてくると思います」と、言われました。それを認識することができ、それを取り除くことができ、それの束縛から抜け出すことができれば、本当に師父が私たちのために按排してくださった道にしたがって進むことができます。やるべき三つのことをしっかり行なってはじめて、師父が私たちに与えられた修煉の道に向かって真に進むことができるのです。

 遭遇するすべてのトラブルは、私たち自身の後天的に形成された正確ではない観念によるもので、それらの観念は、新宇宙の法理に符合していません。ですから、それらはあなたの昇華を阻害します。それらを取り除いてはじめて、執着を取り除くことができるのです。以前、修煉の中で、関にぶつかると、内に向かって探し、問題点をいっぱい見つけ出したものの、真に修めようとしませんでした。今になってやっと、学法の重要性を明確に認識することができました。ですから、自分自身が関を乗り越えられないとき、何によって妨げられて修煉ができないのか、どの方面においてまだしっかり行なっていないのか、あるいは何の執着がまだ放下できていないのかを必ず原因を探すべきです。なぜなら、修煉はほかでもなく、常人の心を切り捨てることであり、当然ながら私たちは、たくさんのことを探すべであり、さらに何が一番放下し難いものなのかを探すべきです。深刻な場合、それが修煉よりも重要なこととして見なされ、つまり、乗り越えられなかったことのその観念であり、これらの観念を変えて大法に同化し、心性を向上してこそ、新しい一層の宇宙の法理に符合することができ、宇宙の特性はあなたの進行を制約しなくなります。それによって、あなたは昇華して行き、関も乗り越えられるのです。

 師父は『論語』の中で「この領域を切り開くには、常人の認識を根底から変えなければなりません」と説かれました。私たちの修煉は、つまり、後天的に形成された私利私欲のような頑固な観念を切り捨てる過程なのです。師父は、私たちに真相を説明し、衆生を救い済度し、迫害に立ち向かうようにと私たちに教えています。もし、私たちが常人の観念をもって考えると、外で真相説明をすると必ず逮捕されて迫害を受ける、特に、現地で深刻な迫害の状況が現れる、あるいは、遼寧瀋陽蘇家屯で発生した臓器摘出といった残虐な迫害の場合、人類のこの空間での現れに驚かされるのです。

 しかし、これは間違っています。常人の基点に立って、正法時期の修煉者を保護できるのでしょうか? もし、法の基点に立って問題を認識するのであれば、真相を伝え、迫害に立ち向かって衆生を救い済度してこそ、はじめて守られて安全になるのです。なぜなら、真相説明を通じて良く修めた各層の各空間の身体はみな聞いており、みな邪悪を取り除いているからです。邪悪が一番怖がっていることが、真相が明らかになることであり、私たち修煉者が真相を怖がっているのではありません。各層の天体の衆生がみなわかるようになり、衆生が分かるようになればなるほど、邪悪の解体はより多くなり、衆生はみなわかるようになります。それでは、邪悪は解体してしまうのではありませんか?衆生は、救い済度されるのではありませんか? 邪悪が解体され、私たちは安全になるのではありませんか? これこそが、修煉者と常人の観念の違いではないでしょうか?

 救い済度されるべきたくさんの衆生を救い済度できないのであれば、それは、修煉者自身が良く行なっていなかったため、衆生が救い済度される機会を失ったのです。しかも、歴史の流れの中で淘汰されます。これは、衆生にとって言えば、悲しいことではないでしょうか? 私たちにとって言えば、慈悲心はどこに行ってしまったのでしょうか? 私たちが修めているのは慈悲ではないでしょうか? 修煉の過程の中で私たちは、様々な常人の心を切り捨て、たくさんの邪悪を取り除きます。なぜなら、私たちは正法時期の大法弟子であり、衆生は私たちの救い済度を必要としており、それは、私たち宇宙の衆生の円満だからです。これらは、まるで私たちの修煉の中で山ほど大きな仕事のように、絶えることなく速く行なってはじめて、やり終えることができ、やればやるほど環境は良くなります。もし、いつも今日を明日に委ね、明日を明後日に委ねてばかりいては、溜まりに溜まって最後には大きな山のようになり、動かそうとしても動かなくなります。これは危険ではないでしょうか? 正法時期の大法弟子は、まるで戦場の兵士のように、この戦場は形の見えない戦場であり、正と邪の大戦なのです。特に、正法はすでに最後の時期に入り、つまり、正と邪の大戦は決戦の時期を迎えました。邪悪は消滅される前に、必ず最後に必死に暴れるはずで、必ず私たちの漏れのあるところをつかんで離そうとしません。このような肝心な時期に怠けていては、危険の極みです。

 修煉はまるで山登りのように、もとより簡単なことではありません。また、一つひとつの重い荷物を背負って登らなければなりません。果たして登りきれるのでしょうか? これらの荷物は、つまり私たちの後天的に形成された正しくない頑固な観念です。もし、これらの荷物を一つずつ放下することができれば、軽くなるのではないでしょうか? 師父が『転法輪』の中で述べられたように、放下できるものが大きれば大きいほど軽くなるのです。これらの後天的な観念が私たちの執着心を形成する原因となります。それらを認識し、取り除き、突き破ってはじめて、師父の法身がこれらの悪い物質を取り除いてくださいます。それによって、体に本質的な変化が起こり、切り捨てるものが大きいほどその分だけ軽くなり、背負うものも少なくなります。また、宇宙特性の制約を受けることがますます少なくなり、昇華して行きます。体の物質が軽くなるほど、功力はますます大きくなり、功の密度も大きくなり、その他の空間で邪悪を根絶するのに威力が益々大きくなります。ある人は、私は何年修煉したとか言っているのですが、真の修煉なのでしょうか? 二日三日も続けることができず、毎日常人のものばかりに執着し、それは果たして修煉なのでしょうか? たとえば、一日正念を一回だけ発することと一日何度もすることが同じなのでしょうか? 真相を伝え、衆生を救い済度し、反迫害の中で法を実証すると同時に三つのことをしっかりと行なった同修と同じなのでしょうか?

 私たちは、法を勉強する時良く睡魔に襲われているのですが、それは本当の自分自身でないことを見極めてください。後天的に形成された観念と思想業力があなたを妨害するのです。あなたが法を勉強する中でつまり、それらを切り捨てているのでそれらの良くないものは、あなたを妨害しようとします。師父は「なぜなら、その他の空間のすべては生命があるもので、業力も同じです。人間が正法修煉をするときは、つまり、業力を取り除いているのです。業力の消去はつまり、業力を取り除き、転化させます。当然ながら、業力は消去されたくなく、人間には難が現れ、阻害が生じるのです」と、説かれました。このような時こそ、私たちはもっと正念を強化して法の勉強をすべきで、表面上での虚像に惑わされてはいけません。法の勉強をしたくないと思ってしまうと、誰が喜ぶのでしょうか。それらの消去されるべき良くないものらが一番喜ぶのです。それらに生存できる空間と息ができる機会を与えると、まるでゴミのように氾濫して災いを引き起こすのです。「人為的に邪魔を養い、それらを法の隙に乗じらせる」のです。(『道法』)

 師父は、私たちに法を多く勉強するように、法を多く勉強するようにと再三学法の重要性について強調されました。私たちが法を勉強する過程は、正念を強化する過程であり、法に同化する過程であり、また、自分自身の後天的に形成された正確ではない観念を取り除く過程であり、自分自身の空間場を取り除く過程でもあります。師父は、「わたしの本の一文字、一文字はみなわたしの姿かたちと法輪で、すべてわたしの言葉なのに、・・・」(『転法輪』)と、説かれました。取り除かれるものが多ければ多いほど、邪魔が少なくなり、同時に私たちは常に自分の心性を向上させ、師父の正法進展について行けるのです。もし、法を良く勉強しなければ様々な後天的な観念、思想業力、その他の空間の邪悪、腐った鬼と邪霊などの要素は、益々多くなり、これではさらに危険ではありませんか? 他の空間の邪悪は、機会を狙って私たちの心性の漏れのあるところの隙に乗じるのです。ですから、法の勉強は修煉の根本であり、常人の理は反対であり、楽ばかり考えてはいけません。「小坊主は苦しみに耐えれば耐えるほど功を開きやすいのですが、高僧は楽をすればするほど功を開きにくくなります。ここに業力転化の問題があります」(『転法輪』)。

 私たちは幸運にも、天地開闢以来かつてなかった宇宙の正法時期の大法弟子となり、衆生を救い済度する使命を持ってこの世にやってきました。私たちに果たして精進しない理由があるのでしょうか? 師父は、宇宙正法の中で私たちのために、衆生のために恩返ししてもしきることのできないほどの巨大なものを受け入れています。もし、常人社会の安逸な生活を追求して、この万古の機縁を失うのであれば、これはどれだけ恐ろしいことでしょうか。同修たちよ!私たちの歴史上の誓いを実現するために共に精進し、師父について返本帰真しましょう!

 浅いところでの悟りですので、適切ではないところなどございましたら慈悲のご指摘をお願いします。

 2007年4月6日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/1/8/146310.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2007/2/3/82264.html