■日本明慧 http://jp.minghui.org/2007/04/08/mh105168.html 



衆生を救うことにおいて、私たちは全力を尽くしたのか

 文/中国広東省の大法弟子・無争

(明慧日本)この文章の題を書き終えた時、私は目から涙がとめどなく流れ落ちました。

 師父が衆生のためにどれだけの苦労をなされたのか(師父のご恩は世の中のいかなる言葉でも言い表せません)、そして大法弟子は師父が按排してくださった修煉の道のりを一歩一歩たゆまず前進し、邪悪に直面しても怖がらず、後ろへ下がらず、そして同修が邪悪の迫害の中で自分たちの誓いを果たしていること、そして倹約して生活してまで貯めたお金を大法の資料に使う同修たちに私は深く感動しました。

 ある時、あるほかの地域の学習者が私を訪ねて来ました。私は仕事を終えて家に帰ると、彼女が来たので、一緒に夕食をとろうと誘うと、彼女は、もう食べたから彼女の分まで作らなくていいと言いました。その後、一緒に住んでいた同修に聞いたのですが、彼女はたくさんのマントー(小麦粉を練って作った食べ物)を持って来ていて、夜はマントーしか食べていなかったそうです。また、彼女は自分が節約して貯めたお金を資料製作に当てていると聞き、私は涙が流れ、同時に自分がこの面でよくできていないので後ろめたく思いました。このようなことにおいて、私はどれだけできたのでしょうか? 自分の給料の三分の一は資料の製作に当てていたものの、残りの三分の二はどうでしょうか? 自分の日々の生活に使っていました。流行に乗って、好きな服やネックレスを見ると買い、さらにはいわゆる「きれいな」髪形をして一回で数百元使い、お金は全てこのような必要のない事に使っていました。このような執着はすでに自然になっていて、学法を続けなければ、これが後天的な変異した行為だとは気づかないほどでした。その後の学法の中で、徐々にこれらの良くない執着を取り除きました。友達と一緒に外出する時も、自分が何を買いたいのか良く分からなくなりました。段々と物質に対する欲望が取り除かれたのをはっきりと感じました。10元を節約すれば、印刷用紙を一パック買って真相資料を作ることが出来、無数の衆生を救うことができることをはっきりと知りました。

 ほかの同修がいわゆる「流行」の髪型にしたり、さらには髪をほかの色に染めたりしたのを見た時、私は気にかけずにただ微笑んでいます。あんなにきれいだった髪を何でこんな風にしたのですか? 一緒にいる同修が絶えず新しい服を買って箪笥に入れているのが、当時の無知だった自分と重なって見えました。私も同修にふざけて「これ以上買ったら箪笥に入らなくなるよ」と言うと、同修は恥ずかしそうに「そうですね。これ以上買い続けたらいけませんね」と言いました。私も同修も学法の中で、このような流行を追いかけることは修煉者が取り除くべき執着であることをもっと意識できると信じています。私たちがこのような流行を追いかけることに使っているお金を衆生を救うことに使えば、それはなんと神聖なことでしょう!

 『憶師恩』の中で、同修は、師父はスーツ2着と一足の古い革靴といったとても素朴な身なりですが、それでも整っていて清潔であり、師父は説法に遅れないためにカップラーメンを食べていらっしゃったと言っていました。また、家を売ってそのお金を衆生を救うことに使っている同修や、自分で飼っている鶏の卵を売ったお金で真相資料を作っている同修がいるのも知りました。もちろん、常人の社会にも出来る限り合せなければならないので、何事も極端になっても、また無理やりしてもよくありません。そう、身だしなみがきちんとして、清潔で気前が良く、現代のいわゆる潮流を追い求めず、人が見てさらによい感じを与えるべきです。

 師父は『退職してから煉る』の中でこうおっしゃっています。「人類の道徳は一日に千里の速さで滑り落ちています。常人はみな物事の成り行くままに従い、道から遠ざかるほど元に向けて修めるのは難しくなります」学法と心の修煉を通して、私は衆生を救うことの緊迫性を悟りました。その後、私は給料の三分の二を衆生を救うことに当てました。修煉ではこういう細かいところで幾らお金を使ったのかには重点をおかず、幾らお金を使っても威徳は同じです。神や仏はお金を幾ら使ったのかにはこだわらず、どのくらい心をかけたのかのみを見ます。旧勢力は私のこのような不足を見付けたのか、私を干渉しようとしました。突然の洪水で実家が倒れ、故郷は全て災害地域と化しました。被害にあった難民たちを見て、しばらくは心が落ち着きませんでした。しかし、邪悪は私を干渉することは出来ませんでした。私は邪悪に動かされて常人のことに追われませんでした。私はさらにするべき三つのことを行いました。この時、私は「辺りいっぱいに咲いている花」の中のある小さな花になれたのかもしれません。実家で私は娘としての責任を全うし、家の中のこともしっかりと行い、再び家を建てられるようお金も送りました。父母の苦は知っていますが、さらに多くの衆生も苦しみながら、私たちに救われるのを待っています。彼らを救い、真相を分からせることこそ真に苦海から抜け出すことができるのです。

 ここ半年間、経済面で緊張した状態が続きました。旧勢力はこの面で私たちの修煉を邪魔し、時々とても辛く思うこともありました。修煉は本当に辛いものだという考えは人の心で考えた結果だということを知っています。師父はこうおっしゃいました。「自分の感覚を頼りに煉功している人もいますが、あなたの感覚は何ほどのものですか? なにものでもありません」「忍び難きは忍びうる、行ない難きも行ないうる」そうです、私たちの修煉の中でのあらゆる感覚は修煉の最高の理ではないのです。今まで歩んできた道のりを振り返って見ると、柳暗花明又一村というように、困難を乗り越える度に目の前には違った景色が現れ、その困難はもはや何でもありません。しかも、結果的に何も失ってはいません。大切なのは、私たちは神もうらやましがるようなものを得たということです。私たちが行う全ての事は自分のために行っています。私たちが行った全てのことは神たちが一筆一筆記録しているのです。

 ある時同修と交流したのを覚えています。私が「私たちは時間を大切にしてするべきことをしっかりと行わなければならない。恐れる心に行く手を阻まれてはならない、外に出て、法を実証し、ほかの地域の同修に置いて行かれないようにして、『比べて学び、比べて修め』よう」と言うと、彼女は「慌てることはありません。師父が私たちのために計画してくださるはずです」と言いました。彼女の話の中に、私は彼女の外に出て法を実証することへの恐れの心を見ました。当時私は恐れを感じませんでしたが、後で、自分にも恐れる心があることに気づきました。私たちが師父のおっしゃった通りに三つのことを真によく行えば、邪悪は私たちに手を出すことができません。私たちは世の人が真相を聞きに訪ねてくるのを待っていてはなりません。私たちが外に出て真相を話さない限り、世の人も自ら訪ねては来ないでしょう。このようにしては、師父が計画してくださった道のりをしっかりと歩めたと言えるのでしょうか? 衆生を救うことにおいて私たちは力を尽くしたのでしょうか? 同修が私に「あなたはただ功徳を求めている」と言いましたが、それを聞いた後、私の心はとても平静でした。修煉者はこのような功徳には執着しません。雨風の中、この数年間あんなに多くのことを乗り越えて来て、私は自分が何をしているのか分かっていました。私たちはただ人を救うことだけを考えるべきです。しかし、彼女のこの一言も偶然ではありません。師父が彼女の口を借りて、「衆生を救うだけではなく、心も修めなければならない。三つのことをしっかりと行い、家や社会のこともバランスを保たなければならない」と私を諭しておられるのです。個人の悟りです。同修のご指摘をお願いします! ありがとうございました!

 2007年4月8日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2007/1/13/146763.html

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