すべての念を修める 文/大陸大法弟子
(明慧日本)ニューヨークの交流会で発表された体験談「震撼」を読んで、何度も涙ぐんでしまいました。読んでいるうちに、なぜ新唐人の新年祭は全世界で大きな反響を呼んだのか、なぜ多くの観客が感動を覚え、涙してしまったのか、分かったような気がします。「新年祭は師父が法を正しておられ、決して普通の公演ではないのです。師父が宇宙の正の神を動員し、正の神が師を助け、法を正している」からです。ここから、私たちの修煉に師父がおられなければ、いくら修煉しても成就できないと悟りました。修は己にありて、功は師にあり、すべては師父が行なっておられるのです。
ここから、私たちはなぜすべての念を修めなければならないのかを考えました。実は、私たちは今になって初めて、すべての念を修めるのではなく、如何なる時でも自分のすべての念を修めるべきです。ただ、修煉初期のとき、法を多く勉強しておらず、修煉が成熟していなかったため、考えが正しいかどうかを弁えにくかったのです。そのため、多くの失敗を招いてしまいました。今、私たちはほぼ成熟に向かっており、法に対する認識が高まり、考えを判断できるようになり、すべての念を修めることができるようになりました。
なぜ、すべての念を修めるべきでしょうか? 三つの理由があると思います。
その1、 ある一念が生じた時、正しいかどうかを判断し、正しくなければ即座に消滅してしまいます。あなたの正念がでると、師父はあなたの身体にあるその物質をとってくださるのです。修は己にありて、功は師にあるからです。正念がなければ、師父も成す術はありません。なぜならば、あなたは修めていないのです。
その2、 ある一念が生じる時、すぐにそれに気づくことができれば、それを取り除きやすいのです。なぜならば、その時、悪い念はまだ勢力を成しておらず、あなたを左右することができず、良くない物質を形成していないからです。もし、それに気づくことができず、悪い念を放任してしまうと、それに従ってしまい、悪い念が徐々に強くなり、あなたをコントロールしてしまう可能性さえあります。この時になって初めて、気づいても、まだ遅くはありませんが、それを取り除きにくくなります。なぜならば、あなたはなんと言っても、邪念につられて、法をしばらく離れてしまったからです。「道から離れれば離れるほど、元に戻りにくくなります」。(『定年になってからまた修煉する』)
その3、 ある一念が生じ、それが邪念であれば、それを取り除いた後、正念があなたを主宰し、あなたの頭がはっきりしており、思考明晰で、どのように行うべきか、すぐ分かるようになります。つまり、正しい念の下に正しい行いがあるということです。もし、良い念か邪念かを判断することができず、人心の動くままに喜んだり悲しんだりすると、頭は邪念に占領されてしまい、旧勢力が按排した道を歩みかねません。
すべての念を正して初めて、正しく、着実に歩むことができます。すべての念が正しくなれば、私たちは神になります。そうでなければ、私たちは人間にほかなりません。多くの学習者は一念の違いで、刑務所に監禁されましたが、多くの学習者は正念をもって、危険な境地から逃れることができました。一念の違いは雲泥の差です。
すべての念をしっかり修め、正念をもって正しくない念を取り除くことができれば、私たちはきっと成功することができます。なぜならば、偉大な師父は時々刻々私たちのそばにおられるからです。
2007年4月16日
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2007/4/15/152743.html)
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