日本明慧
■印刷版   

情とは?


 文/佇風(台湾)

(明慧日本)「私はいかに婚姻と家庭に接するのか」の中に、明慧編集者がこのように注をつけた。「生命の次元と修煉の基点からみれば、真修弟子の中の古い学習者は、修煉できた一面がすでに非常に強く、相当完備して本体と心性はすでに非常に高い次元にある。しかし常人や入門したばかりの新しい学習者は、本体と心性が常人の中にあり、或いは常人に非常に近い次元にあり、修煉できていない一面(人的な一面)がまだメインで、業力や混沌とした物質に満ちている。我々は常人社会の中で生活しており、いかに常人の状態に合うように修煉するかを考慮する必要がある。同時にみなさんが修煉者として、天上の角度からものごとを考えることがもっと重要である。神は人に対して慈悲であるが、しかし、決して人を自分と同類の生命と見なさない。古い学習者が常人或いは新しい学習者と結婚することは、神と人との結合のようで、天上でこのようなことが起きるだろうか、みなさん理性をもって考えてみてください。そうすれば、正法修煉の最後の段階で、もっと法の上で修煉できる」。この点に基づいて、私は自分がほかの空間で見たことについて補足したい。

 去年(2006年)後半、私は修煉してからはじめて情の関にあった。前後して3人が私に恋人になりたいと申し込んできた。常人もいれば修煉者もいる。その後、私は夢の中でこの面の暗示がよくあった。書き下ろしてみなさんと交流したい。

 1、情にこだわり、粉々になっても惜しまない

 夢の中は景色がいい場所だったが、しかし異なるところは、水の密度が非常に高いピンク色の湖水だった。夢の中で私はこの水がいわゆる「情」だとはっきりわかっていた。湖は限りなく広く、多くの人が競走のように湖の中で前進している。しかし水の密度が高く、前進することがなかなか容易ではないようで、一部の人が歩いては沈んでいった。一部の人は歩けば歩くほど体が裂け、最後には体が粉々になった。残ったわずかな意識もそのひとつの体の破片と一緒に彼の恋人に最後に会いたいとこだわっている。その一念でその意識と破片が彼の恋人の隣につき、彼の恋人についに会った。ただしその後、彼はずっとひとつの大きな山に釘付けされ、修煉することが許されなくなった。そのとき、私には翼があって天上を飛んでいたが、下で情に浸っている人々の状況をみて、恐ろしくて目が覚めた。目覚めてからも絶えず自分に忠告していた「私は絶対あのようにはなりたくない......私は絶対あのようにはなりたくない......」。

 2、常人は全身に業力があり、泥の中にいるようだ

 同じくピンク色の池で、私にもっとも近いのはあの常人、次はあの学習者、最後にもっとも遠いのは別の一人、その順序はまさに私の心の中での彼らの順列であった。しかし我々はみな情の中に浸っていた。下半身が情の中にいた。私の手に紐があった、紐の先は船だった。しかし私は船に乗らず、水の中で泳いでいた。私は自分がもっとも好きだった常人を見たとき、私は恐ろしい光景をみた。彼は全身が黒い業力に満ちて、泥から出たばかりのようで、全身が厚い黒い泥に覆われていた。ある学習者のところにいくと、その学習者は古い学習者で、全身白く光っている。しかしまだ情の中に浸っている。いろいろあって最終的に私はやはり船に座り、この情水から離れることを選んだ。小さな船の乗り心地は面白いもので、小さいが前進のスピードが非常に速い。

 私はネットで自分が見たものを学習者たちとあまり交流しない、学習者に顕示心といわれる執着がある一方、所詮個人の次元の問題でみたものが全部ではないと思っていた。

 2007年以来、法を正す進程が新しい段階に入り、師父はほかの空間で私を悟らせた。私に早く追いつくように、いまでも自分の位置にいる学習者を呼び覚ますようにと。ほかの空間では、私はいたるところでそれらの学習者に時間は待たない、早く法を正す進程についてきてと教えている。しかしそれらの学習者は依然慢心して、修煉上根本的な問題を重要視していない。そのため私は自分がみたものを書き出してみなさんと交流したい。共に向上できれば幸いである。

 2007年4月17日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/3/21/151183.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2007/4/9/84381.html