■日本明慧 http://jp.minghui.org/2007/04/21/mh232240.html 



最後になればなるほど、自分に対してもっと厳しく要求すべきである

(明慧日本)大法弟子が師父について正法を行ってすでに8年になりました。その修煉過程の中で法輪功学習者たちは、益々成熟してきました。農村部にお住まいのある同修の修煉体験がいまだに私の記憶に残っています。彼は2005年に初めて他の同修と連絡が取れたそうですが、その時まで彼は一人で修煉していて、村には他の大法学習者が一人もいませんでした。しかも、李先生の新経文を読んだこともなく、『転法輪』一冊で修煉をしました。彼は、邪悪が法輪功に対して捏造により大法を攻撃する時、大法に対する信念の試練を自分一人で乗り越えてきました。悪人に妨害される時も正念をもって立ち向かってその邪魔を取り除き、自発的に村の人々に真相を伝えました。他の同修の助けがなく、集団的な環境もない状況下で、彼は法に対する確固たる強い信念だけで、大法弟子としての行うべき三つのことをしっかり行いました。その後彼は、都会にいる他の学習者たちとやっと連絡が取れました。比較的に恵まれた修煉環境にいる都会の学習者たちは、こんなに厳しい修煉環境の中でも正念正行を持って正しく歩んできた彼を心から敬服しました。同時に法に対する自分の信じる心を確かめ、自分たちの足りないところを見つけました。

 「上士、道を聞けば、勤めて之をおこなう。中士、道を聞けば、在るがごとく、なきがごとし」。(『転法輪』)1999年以前の個人修煉から99年以降の正法時期に入ってから、時間の推移と正法の形勢の進展にしたがって、大勢の大法弟子は次から次へと立ち上がって、法を大事にし、修煉の貴重さを大事にするようになりました。その過程の中で「上士」に昇華しました。最後になればなるほど精進し、大法弟子に対する法の要求も益々高くなりました。要求が高くなるとさらに正しく行わなければならず、自分に対する要求を簡単に緩めてはいけません。先日、ある学習者が「色欲」に関する「修煉の現段階における色欲についての認識」という文章を発表しました。「正法の進展に従って、同修たちの法に対する要求に認識も高まっています。大法弟子の境地と純度の要求もさらに厳しくなりました」。正法が進展するにつれて大法弟子全体は、益々成熟し、要求も絶えず高まり、大法弟子に対する法の要求も高くなります。それでは、今まで気を緩めて、良く行えずまだ足りないところのある学習者は、いまはそれらをこれ以上放置してはいけません。

 無意識的な依頼心は、時には、良い環境と条件に恵まれている学習者たちを知らず知らずのうちに、それを当たり前のように感じさせます。師父は、私たちに一緒に法を勉強し、一緒に煉功するようにと教えられました。こうすることによって新しい学習者を励まし、さらに、互いに交流を通じて全体の向上を得ることができます。しかし、とても厳しい環境下で、他人ばかりに依頼し、心性の向上のための難にあった時も、いつも他の学習者の「指摘」を求めます。大法弟子が法を実証しながら成熟に向かう過程の中で、これらは避けては通れない過程ではありますが、大法弟子がとても成熟してきた今は、この執着を引っ張り出して切り捨てなければなりません。依頼心は、かなりの程度に修煉者の向上を阻害し、遭遇したすべてのトラブルを外へと押し出してしまうのです。これでは、自分自身が修煉しているのではありません。さらに、自分自身が法を実証しているのではなく、その威徳を他の学習者に引き渡すことになります。具体的な修煉問題に関して、師父も解答をしておられません。それは、修煉者に対する師父の慈悲なのです。それでは、一部の具体的な修煉問題について、もし、真に相手の学習者のためを思っているのなら、その学習者に法を良く勉強するようにと声をかけてあげるべきです。「心性の向上が速い大法弟子は、必ず法の勉強を重視しています。なぜなら、法は基礎であり、つまり、法は大法弟子の根本であり、すべての保障だからです」(『オーストラリア法会への祝辞』)。

 自分自身がいる次元で真に悟ることができてはじめて、本当の向上を得ることができます。修煉は誰も代わりにやってあげることができません。例え、ある学習者がどれだけ良く修煉したとしても、それはただその学習者が自分のいる次元で悟った認識であり、それは最終的な宇宙の法理ではありません。その学習者もあなたを制限したくなく、それも覚者の慈悲なのです。みな一緒に法を実証する時には、最高の効果に達するためにお互いに交流を行うことはできます。しかし、個人が遭遇する具体的な試練と難については、自分で悟り、法を師とすべきです。こうしてはじめて、法はあなたを真に高い次元で修煉するように指導するのです。

 また、一部の学習者は、自分自身の修煉環境に慣れてしまって、周りの学習者に対して「情」が生じ、いつまでもみな一緒に仲良く法を実証できればと望みます。しかし、修煉者の道はそれぞれ異なり、実際、法を実証する需要によってみなこのように出会えたわけですので、大法弟子の間の「情」を含め、いかなることにも執着してはならず、どこから来て、どこへ行くべきかは、すべて師父が按排してくださいます。一人ひとりの大法弟子は、全体の中の一粒子であり、一緒になる時は大きな全体を成し、一人の時は、自ら小さい全体を成しています。大全体、小全体にかかわらずみな大法を代表しており、発するエネルギーも同じく純正で穏やかで法を実証することができます。なぜなら、皆さんはこの法のために集まり、集まったのもこの法のためだからです。ですから、固定した形式と環境もなければ、固定した「群体」でもありません。あなたを必要とするところへ、行くべきです。時々刻々法を師とし、心にあるのが法であれば、自然とこれらの人情の執着を切り捨てることができます。大法弟子がこの世にやってきたのは、他でもなく師父を助けて正法に参加するためで、自分の使命を明確にすれば、常人のすべてのものを放下することができます。かつてある同修から聞いた話ですが、彼は千人パレードに行く度に、情熱的に周りの学習者に挨拶をするそうですが、一部の学習者から冷たい顔をされて、気持が傷つけられたと言います。私は笑いました。大法弟子が集まったのは法のためであり、人情のためではないからです。常人は、よく四方山話に花を咲かすのですが、しかし、大法弟子としてお互いの話の内容は、法理上での交流にほかならず、如何にして良く真相を説明し、共産党からの脱退のことやGalaのチケット販売などを進めていくかのことです。すべてが衆生を救い済度することから離れません。みなさんはとても忙しく、法を実証すること以外に、他のことは耳に入らないはずです。「視ても見不(ざ)れば、迷わ不(ず)も惑わ不(ず)。聴いても聞か不(ざ)れば、その心乱れ難し」(『洪吟・道中』)のように、みなその次元に到達したのです。

 今日まで修煉してきて、一人ひとりの大法弟子はみな成熟しました。トラブルに遭ったら、待たず、依頼しないでください。トラブルに遭った時は、ひょっとしたらあなたが解決することを待っているかも知れません。トラブルに遭ったら、事の大小にかかわらず自分の中で原因を探さなければなりません。ある学習者も内に向かって探すことは知っていますが、結局、探しまくってもその根源がどこにあるのかを見つけられませんし、都合の良い時だけ探します。「私に執着があるけど、あなたにもある」と、他の人が指摘すると絶えず自分の執着のために言い訳を作ります。無意識的にやはり、自分の「私」を守ろうとします。他の学習者を向上させて、自分自身はずっと同じ次元に留まって徘徊しており、昇華がとても遅いのです。多く法を勉強し、法に溶け込むことができ、絶えず自己を厳しく律し、内に向かって探すことが鍵です。人間は常人の中で社会の中で泥んこ遊びをしていて、自我を守りたいという強い意識が生じ、時間が長くなると当たり前のことのようになってしまいます。法はとても道理に合うが実際行うのは難しく、常人の心を修める時は、とても放下できないと感じるかも知れません。放下できれば、あなたは神であり、放下できなければ、あなたは常人にほかなりません。

 個人の悟りですので次元が限られており、適切でないところがあれば、同修たちの慈悲のご指摘をお願いします。

 合十。

 2007年4月21日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/3/21/151185.html

明慧ネット:jp.minghui.org