震撼(二)
(明慧日本)
二、2007年新年祝賀祭
私は火曜日の朝(新年祭の日の朝)、目は覚めましたが完全に目を開けておらず、何か違う感じがしました。目を開けると、わぁと驚きました! 天空に数え切れないほど多くの神がおり、とても壮観でした。思わず「あなたたちも公演を見に来たのですか?」と言うと神たちは消えました。今それを思い出すと、不敬だったと思います。なぜなら私が言った言葉には人心が入っていますが、人心は汚いもので、神がどうして人心と対話するでしょうか?
公演のとき、私は楽屋で役者たちの準備の手伝いをしていました。準備が終わったら、私はいつも劇場の最後の列に座り、公演を見ていました。これはよくないのは分かっていましたが、自分を制御できませんでした。なぜなら公演をとても見たかったからです。私は劇場にたくさんの法輪が飛び回るのを見ており、それは世間にない壮観さと輝きです。劇場内の観衆らは老若男女を問わず皆、背をまっすぐ伸ばして目を凝らして演目を見ています。彼らの体は巨大なエネルギーに吸引されてほとんど同じ角度で前に傾いていました。これらの観衆たちは本当に幸せです。将来、彼らは真相が分かったらどれほど感激するでしょう。
舞台の上で役者の同修は世人に大法のすばらしさを伝えており、すべての役者の後ろに神がおり、彼らと一緒に踊ったり、歌ったり、奏でたりして、天幕の中に無数の生命も生きており、役者と一緒に舞台を異なる世界にしていました。タイ族の舞踊を踊ったとき、天幕の川辺の孔雀が舞台にいる同修と一緒に踊っており、河の水が本当に流れているようであり、二人の巨大な神が滝のそばに座り、音楽の拍子に合わせて頭はうなづき、体が揺れ動いています。石工の夢の中の神も舞台上の役者たちと同様に踊っており、彼らの舞う姿はしなやかで美しくて私の心を強く震撼させました。
石工が寝てしまい、劇場の照明がだんだん暗くなり、最後の一束の光が石工の身体の上に止まりました。しかし、このとき、二人の神が依然として光を出していました。私がそれを見ていたら、焦ってきました。心の中で「早く降りなさい、もう終わったよ」と言いました。すると、彼らはすぐに光を出さなくなりました。
兵士を演じる同修が後転宙返りをするとき、頭が床に近すぎ、もし足の動作が少し遅れたら大変なことになります。このときになるたび、私は息が止まるほど緊張しました。しかし、彼がこの動作をするとき、手の形の一塊の密度の高い白い霧が彼を軽く押すと、彼は楽にこの難度の高い動作を完成しました。これを見て私の涙はいつも思わず出てきました。なぜなら尊師がずっと彼を保護しているのが分かっているからです。
初日の公演が終わり、私は心から涙が流れました。弟子の演技がすごいといっても、実は皆師父がやってくださったのです。師父の巨大な助けをわれわれはどれほど知っているでしょうか?
時に、舞台上で役者の同修がハンカチを落としたり、あるいは手足の動作が間違ったりしますが、彼らの後ろに立っている神はハンカチを落としておらず、手足の動作は間違っていません。しかも神らの動作は整然としており、舞う姿は優雅で美しいのです。私はこれを見て再び強く震撼しました。新年祭は師父が法を正しており、決して簡単な公演ではありません。師父が宇宙の正の神を調達して師父が法を正されるのを助けています。役者としての大法弟子(もちろん私も含め)が法理上でこれを認識できず、師父が成就されたいことを徹底的に完成させないと、法を正す場を邪魔しかねず、その罪は想像できないほど大きいのです。
1人の同修が私に一枚のチケットをくれましたが、役者たちの許可を得て、私は自分の仕事を早めに仕上げてから劇場に座って最初から最後までの演目をひとつももれなく全部見ました。異なる世界を回っているようで、その神聖な感覚は言い表せません。劇場にいるすべての人は皆、師父の巨大の体のなかにおり、法を正す巨大なエネルギーは人間の言語で言い表すことができません。
公演を見てから家に帰る途中にも自分が温泉に入っているようで、悟性が低いため、これは以前によくある師父が私に灌頂した現われではないか、体がこれほど多くの汗をかいて、家に戻ったらまずシャワーを浴びなければと思いました。家に戻り、コートを脱いで鏡を見たら、顔がつるつるに輝いて光っており、体を触ってみたら、一滴の汗もなく、体がさわやかで滑らかでつやのあるガラス瓶のようでした。体内の熱い流れが波のように全身を回っており、これは師父の巨大な功だとはじめて悟りました。
われわれの体はこの空間で修煉しており、正真正銘の佛の洪恩を理解することができないかもしれませんが、私の体がここまで浄化されたことは十分仏法無辺を証明でき、師父の功がないところはなく、できないことはないのです。一人の大法修煉者、一人の古い学習者としては十数年を修煉してきて、師父がこのような形でわれわれに功を与えてくださっていることを知っており、尊師は量りしれない心血を費やされたに違いありません。私は師父の法像の前で合掌してしばらく立ち、頭が真っ白で動きませんでした。なぜなら、師父の洪恩を感じたとたんすぐにぬかずくことはやってほしくないと突然感じたからです。私は自分の心に「わたしが大法を修煉する心は純粋であるかどうか? 真に修煉しているかどうか? 大法弟子の資格に合うかどうか」と問いかけました。このとき、私は心から恥じ入りました。同時に今日は過ちを犯したことに気づきました。私は劇場に座って公演を見るべきではありませんでした(私は自分のことを指しており、ほかの同修を指しているわけではないことを声明します)。なぜならその席は衆生に用意したものであり、衆生はその席で師父の救い済度を待つのであり、師父が無量の功で縁のある者を済度されるのです。私はとっくに師父に地獄から救い出され、しかも大法修煉者となりました。このとき、私がやるべきものは大法を証明し、世人を救い済度するのですが、どうして救い済度を待つ人の席を占めるのですか? どうして師父の功を世人と争うのですか? これを思うと、頭に師父の経文『佛性に漏れなし』が浮びました。「今後何かをする時には、まず他人のことを配慮し、無私無我で、なおかつ他人を先に自分をあとにするという正覚にまで修煉しなければならぬのだ」。自分は法の要求に程遠い古い学習者ですが、にもかかわらず、師父の按排されたこの修煉の道を歩けば歩くほど自信があるようになり、心がより広くなり、足どりがより穏やかになったと感じました。
同修と同様に、大法を証明し、家に戻る道にはたくさんの修煉物語があります。これらの物語は次元を高めた成功の経験もあれば、次元を下げた失敗の教訓もあります。次元を高めたとき、師父の法身がいつも微笑んでおられます。次元を下げたときには師父が泣いておられます。再び失敗から立ち直り、次元を高めたときに師父は眼に涙を浮かべながら微笑んでおられます。
師父を見るたびに私の心は幸福に満ちており、同時に恥じ入ることも感じます。たくさんの話を師父に話したいですが、どのように話すかを知らないのです。心の中で「私は必ずしっかりと師父について法を正す道を歩みきり、師父について家に戻ります」と師父に黙々と言うしかありません。
師父、有難うございます、皆さん、有難うございます。
(2007年ニューヨーク交流会体験発表)
2007年4月23日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/4/12/152646.html)
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